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弁天さま【岩手の伝説⑲】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館


小山字弁天堤下の地に、弁天如来像が祀られてありました。

この木像は実に古いもので、所々に蛇の形が彫り付けられてあります。

昔、平泉全盛時代に建立せられたとも言い伝えられ、またこの地を開発した岩淵右近の氏神であったとも言われ、土地の信仰は相当に深く、毎日参詣人は群れを成し、絶えることがなかったと言われています。

堂は弁天堤の中央に建てられ、参詣には朱塗りの舟に乗って堂に達し参詣し、その堤大なるを以て小舟が常に浮かんでいたが、後になって朱塗りの太鼓橋をかけて堂に行き参詣するようになりました。

※堤が大きかったので小舟で行き来していたが

※太鼓橋・・・たいこばし。太鼓の胴のように上へ丸く反ったアーチ橋。


このように参詣人が群れを成して来るので、境内には多くの茶店と出店が繁昌(繁盛)し、非常に栄えたのであります。

※茶店・・・ちゃみせ。さてん。茶屋。日本において中世から近代にかけて一般的であった、休憩所の一形態。

ところが、参詣人から恵みを受けるために乞食が集まってきて、七十歳の老女を頭として、三十余人が境内地域に住んでいたと言われています。

この状態が明治初年まで続いていたと伝えられ、また弁天如来は宮城県金華山(きんかさん)神社と夫婦社であると称され、毎年神のしもべとして金華山の雌鹿がこの弁天堂に使していたと言われています。

※使する・・・つかいする。使者として出向く。

このように盛んであった弁天様が、長谷川博之亟(ひろのじょう)氏の母の実兄某が、出店の商人と喧嘩をして境内を騒がしてから、次第に参詣人が減り、往時の面影を止むる(とどむる)ことができなくなりました。

※某・・・なにがし。名の不明な人を漠然と指し示す。

※往時・・・おうじ。過ぎ去った時。むかし。

※昔の面影を留めることができなくなった。


現在は弁天堂は東方岩淵家の屋敷内に移され、池は干拓され水田と化し、堤の面影としては、池の中央に当たる所が円墳状に残され、その中央に杉の老木が残されています。