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アレクサンダーの学び方

教師というものは、どこか無責任なところがあります。
レッスンで、その時の生徒さんを見て、その時に探求することを探求する。
次に会ったときには、また別なことを探求する。

前のレッスンと続いているような、続いていないような。

別の教師のレッスンを受けると、また全然違うことがレッスンで現れてくる。

レッスンで大事と思ったことを記したメモは、どんどん増えていくし。
本番とか大事な時に、で、私は何をすれば良いのかな?

アレもコレも大事そうに見える。
取りこぼしたくないし、たくさんのことを実行するのも大変だし。

このような質問を受けたのですが、そのときには出てこなかった私の回答を、こちらにまとめてみました。

何かのヒントになったら嬉しいな。

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混乱と仲良くなる


まずは大前提です。

「混乱するのは良いことだ。」

たくさんのレッスンでの体験を通して、
混乱しながら迷いながら実験しながら、少しずつ「自分の血肉」として行くプロセスそのものが、求めている道ともいえます。

アレクサンダー教師同志の集まりで、「レッスンで分かりやすく伝えるには」というトピックで話したことがありました。
あるベテラン教師の「そうか、私は、わかりやすくしよう、なんて考えたこともない」という言葉が、私にとってとても印象的でした。

わかりやすく伝えたい、という教師の探求も尊いし、
「わかりやすさ」には目もくれず?自分が伝えるべきことを伝える、という気概も尊いと感じました。

同時に「わかりやすくしなければ」ということに囚われて、制限になっていたことにも気が付きました。

また、教師が「分かりやすく伝えよう」と思うことが、生徒さんにとって必ずしも良いこととは限りません。

これと同じことが、学ぶ時にも言えますね。

理解したい、という願い。
整理してスッキリしよう、という願いも大事です。

でもそれに対して、「混乱していたら良くない」「整理されてないと良くない」ということは本当ではない。

混乱している。なんか良くわからない。整理されてない。ということを怖がらなくてもよくて、その混乱にしばし「付き合って」みる、という余裕が大切でもあります。

さてさて。この大前提がある上で、
それでも、自分自身のために「もっと整理したい。もっと何をすれば良いかわかりたい」と感じている方のために、書いていきます。

新しい情報が来た時のこと

まず、レッスンで教師から「新しい情報」「新しい提案」がされたときのことを見てみましょう。

例をシンプルにするために、ボディマッピングのことにしてみましょう。

「腕を動かすときには、肩甲骨も一緒に動きます」とレッスンで言われたとします。

このときに、「腕を動かすときには、肩甲骨も一緒に動く」という情報(事実)を知ることと、同じくらい大切なことがあります。

それは、それを聞いた時に、自分自身が何を感じたか。何を考えたか、ということです。

「へーそうなんだ」
「そんな感じしない!」
「そんなこと知ってる」
「それが、今やっているこれと、どんな関係が?」
「え、肩甲骨って動くの?」
「そう思うと動きやすい」

などなどの思考。

感覚的には「それを聞いて、ホッとした。」「軽くなった」「混乱した」などなど。

「腕を動かすときには、肩甲骨も一緒に動く」という情報が投げ込まれた時に、自分自身がどのように「変わった」のか?
聞く前はどうだったのか?
その後にどうなったのか?

この「変わり具合」に注目したいのです。

自分自身が何を感じて、何を考えていたか?

レッスンでは、生徒さんに新しい体験をしてもらいたいので、状況を設定したり、通常ではやらないことを教師が提案したりします。

以前、BCに教えに来ていたチェリストの先生が、よく生徒さんにこんなことを提案していました。

グループで、他の人が輪になって座っている前で演奏するときのことです。

まず、輪の中の1人を選び、その人のすぐ目の前に立って、その人の目を見ながら演奏します。次のフレーズに移る時に、その隣の人の前に移動して、今度はその人の目を見て演奏。
次のフレーズで、また隣の人に。
こうして一人一人の前に立ち、輪の中をフレーズごとに移動しながら演奏するのです。

なかなか日常の練習では遭遇しない光景ですよね。

このような体験をするとき、私たちはいろんなことを考え、感じて行動します。
教師からこれを提案された時に感じたこと。
実際に演奏しはじめて感じたこと。考えたこと。

この体験をするまえと、した後では
自分自身の何が変わっているだろうか?

感じたことや考えたこと、変化したこと、これらを「受け取る」ことが大切です。

抵抗もあるかもしれません。
恥ずかしいとか不安とか。

それも含めて、学びです。

「ああ、聞いている人の、ひとりひとりの存在に積極的に出会うと、演奏しやすいんだな」という学びもあるかもしれません。

逆に「このように演奏することを求められている」「このように演奏しなければならない」ということではありませんね。

レッスンでは、あなた自身について学んでいる


「腕を動かすときには、肩甲骨も一緒に動く」ということを学ぶとき、私たちは実は自分自身について、より理解するのです。

肩甲骨について、それまでどんな意識だったのか?
肩甲骨について知るとどうなるのか?
「腕を動かすときには、肩甲骨も一緒に動く」と思うと、動きやすくなる、とか、場合によっては「逆に動きにくい」とか。

自分が動く時には、何を知っていると動きやすいのか?
逆に何を考えていると動きにくくなるのか?

肩甲骨と腕の関係を知ることも大切ですが、それ以上に、自分自身を理解することがレッスンの目的と私は考えます。
自分自身を理解するとは、自分がやりやすい道を探しやすくなること。
自分の成功法則が分かる、ということです。

何を積み上げていくのか?

レッスンで得られた体験や情報を通して、身につけていきたいものは、自分自身の理解と、もう一つ。

原理です。

例えば先に出てきた「ボディマッピングの情報」や「演奏のときの体験」。
そもそも、教師は、何でそれをレッスンで伝えたかったのでしょうか?

そもその、その情報は、どこから現れてきたのでしょうか?

レッスンで出てくることは、すべて「パズルのピース」とも言えます。

それは、一つ一つがバラバラのものではなく、まとまって一つの大きな絵になります。

一つ一つのピースも重要ですが、そのピースが示唆している全体像が何なのかが大切ですね。

別な方向から言うと、それぞれのレッスンや教師達からの提案や情報、こんなことやってみたら?というアドバイスは、どんな原理から導き出されたのか?

大元の原理は何なのか?

それを見つけていきます。

肩甲骨の話だったら、「自分自身の構造について知っていることが、動きやすさにつながる」「本来の構造や生理に合ったプランを持つことが、動きやすさにつながる」などが考えられますね。

そこからさらに根本の原理にもたどり着けます。

フレーズごとに観客一人一人の近くで演奏する、という体験などは、肩甲骨の話よりも少し複雑かもしれません。

でも、レッスンでの生徒さんの願いを聞いた上で、それを体験してほしい、やってみてほしい、と思った教師の意図は何で、その選択はどのような原理に基づいていたのか?

それを探そうとしていくと、言語化はできないかもしれませんが、根っこにある原理がだんだん見えてくるのではないかと思います。

実践する、とは何すること?

さて、このようにして、
*自分自身の理解
*原理
この二つが分かってきました。

そうしたら、実践するときには、その原理や自分自身の理解から導き出された、あなたなりのプランを実行するのです。

それはレッスンで教師が提案したこととは、また違った形かもしれません。

昔からある和食料理を一つずつ学んだ上で、和食のエッセンスを見つけて、
新しい独自の和食を、材料や状況に応じて創作する。。。
みたいなこと(例えが💦)

もちろん、レッスンでの提案をそのまま使うこともできます。
「これは自分にとって良い!」と納得したことを、何回も実験してみて習熟していくことも大切です。

それらも含めて、今の「すでに変化した自分」が、学んだことや原理を使って、目の前にある課題にたいして自分なりのプランを作って、それを実践する。

そのレッスンを受ける前の自分や、受けているときの自分に戻る必要はない。すでに体験して変化した今の自分として、今までとは違うプランを新しく作って実践します。

学ぶということは。
アレクサンダーを、自分自身と統合させていくプロセスです。
また、どんどん変わっている自分を自覚する
その変化のスピードを自覚する。ということでもあるな、と思います。

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アレクサンダー・テクニークを学ぶやり方の一端を、解説してみました。

ピン!と来るところがあったら、採用してみてね💕







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