保守であるとは

保守であるとは何か。保守であるための必要にして十分条な条件は、聡明であることである。したがって、保守でない者は聡明ではないし、聡明でない者は保守ではない。

聡明であることは、(西部邁氏の言葉を借りるなら:『保守思想のための39章』)「技術知(合理的に体系化された知識)」に由来するものではない。ましてや自由・平等・人権・平和といった近代のリベラリズムや進歩主義イデオロギーのようなモデル化された観念の人工物(概念)に由来するものではない。したがって、学識ある者がそのゆえに聡明であるわけではないし、たとえば知識人や学者が聡明であるわけでもない。(※利口であることと聡明であることは質的に似て非なるものである。)

聡明であるとは、根本的には真善美に対する感覚に由来する具体性とともにある経験的・実際的(実践的)・直観的な魂の判断力と感性において聡明であることである。その聡明さを育むのは母性と父性を介した愛情と道徳であり、正しさ(義)と確かなるものの存在である。

愛国心を有することは保守であるための必要条件である。したがって愛国心を有しない者は保守ではありえない。保守であるとは自らの内に必然的に精神の高貴さを内包することである。保守であることは、美と同様に生の定義しえない根源語としてのみ存在する。定義するとは概念化し、モデル化することにほかならないからである。(※「主義」とは思想の定型化であり、概念化である。「主義」とは思想の形骸であり、哲学的懐疑の放棄と思考停止の宣告にほかならない。)

保守であることは、究極的には記憶と言葉、時間性という人間存在の根本的規定にその根拠をもつ。各人の内面と政治における保守の復興、それのみがウルトラモダニズムというべきグローバリズムとリベラリズムに覆い尽くされる今日の日本および大衆社会にあって、精神の復興の唯一の希望であり、「日本」を取り戻し、ウルトラモダニズムを自己超克する唯一の道となるであろう。

保守であるとは政治的立場そのものものではない。政治的立場は保守であることの帰結として生じるが、保守の本質はより根本的な精神の在り方にある。保守であるとは時間を超えて持続する人間の内なる自然、精神の次元の自然ともいうべき歴史と伝統、そしてその歴史と伝統に支えられた正義の感性に自己の生が根ざしていることである。それゆえ、歴史と伝統によって生成された自生的秩序(文化的生態系)を破壊するグローバリズムとリベラリズム(ネオマルキシズム)は、人間の内なるもう一つの自然、すなわち精神の次元における自然破壊の元凶に他ならないのである。

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