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公務員3年目に担当した新規事業。停滞する私にかけてくれたA課長の発破とは?

仕事の責任は俺がとるから、冨田さんは好きに仕事してみて

これは、私が行政職員3年目に言われた課長からの一言だ。

当時の私は、農業部門に配属されていた。
風向きが変わったのは、所属2年目だったと記憶している。自治体の長が農業部門に注力すると発言したのだ。

自治体はさまざまな計画を元に、事業を実施する。長の一声により、新たな計画と既存の計画の見直しを同時に2~3個、構築するというありえない業務が押し寄せてきた。

本来の業務にプラスして、計画の策定に人員がとられて業務は停滞。当時、課の中には3つのグループがあったが、そのうちの1グループが激務になってしまった。

基本は、深夜0時以降に帰るような猛烈な忙しさ。

そのヘルプに入ったのが私だった。

上位計画が策定される中、下位の事業を進めればならない。
しかも作物が関係しているため、農業者の方々や農協さんにも協力をいただかねばならなかった。

当時、とある作物を栽培している方は、市内に数軒しかいなかった。その作物を育てて、農業における循環型社会を構築するというのが、私の業務内容であった。

私は大学時代に環境問題を専門で学んだので、抜擢に歓喜。恋焦がれた分野に関われると。

しかし喜びもつかの間、自分の不足と対峙しなければならなかった。

当時、25歳。

熱意とは裏腹に、圧倒的に経験と段取力、説明力、交渉力が不足していた。

課内のプロジェクトチームは、担当の私と相談役の係長。そこに課長補佐と課長が入った、小さいチームであった。

当時の私の課題は、とにかく行き当たりばったりだったこと。

外部とはどんな交渉が必要か。
そのために、内部でどのような合意をとらねばならないのか。

そういったことが全然分かっていなかったのだ。

だから、農業者さんとの打ち合わせの直前に、上司からいくつもの了解を得ることになり段取りの悪さに激怒させてしまった。そのせいで、待ち合わせに遅れてしまい、農業者さんも怒らせてしまったことがある。

さらには、連絡ミスで農協さんに多大なるご迷惑をかけたことも……

まったく歯車のかみ合っていない、仕事のできない人間であった。

仕事が停滞すると、業務を相談するのが億劫になってしまい、進捗がどんどん遅くなっていった。

その時の私は、何が課題なのか事実が理解できていなかったのだ。その上、上司に相談できずにいて、抱え込んでいた。

私は仕事ができない……
なんで私が担当しなければいけないのか。
逃げたい。

そんなことばかり考えていた。自分の感情に絡めとられていたことに気づかずに。

当時、一番相談できた7歳上の先輩は農業制度の変更に伴い、庁内の補助金制度の見直しにかかりきりだった。

係長もとにかく忙しく、「冨田さんが考えるとおりに進めてみてくれ」と言われ具体的なアドバイスはなかった。

完全に孤立していたのだ。

しかも、次年度にまたぐと状況が悪化。

忙しいとはいえ親身に相談に乗ってくれた係長が異動になり、代わりに入った課長補佐兼係長が厳しい方だった。

庁内の中枢部分に長らく従事していた方で、計画や数字ありきの人だったのだ。

場当たり的な私とは異なる分析タイプ。
合理的に説明できず叱責されることも増えて、自信もどんどんなくなり、事業へのスピード感に欠けるようになってしまった。

そんな落ち込んでいた私を見かねて声をかけてくれたのが、当時のA課長であった。

通常、行政職員はいろんな部門に異動するものだが、A課長は農業部門を30年以上渡り歩いている専門家。

派手さはなく、コツコツと仕事を積み重ねるタイプだっま。

行政の長の旗振りにより、農業部門の繁忙に拍車がかかり職員が疲弊。停滞をテコ入れするために異動してきたのだ。

A課長とは別の部署にいらっしゃったときに話したことがあった。顔見知りではあるけど、仕事ぶりを見るのは初めて。

その方は、とにかく現場主義だった。

とことん農業者さんのために事業を考える方で、農業者の方から絶大な信頼を得ていた。自ら足を運んで、農業者さんと膝をつきあわせ話す方だったから。

今となっては地元の基幹作物になっている二条大麦(ビール麦)を普及したのも、A課長の寄与が大きいと言われている。

その方が、冒頭の言葉をかけてくれた。

行政職員にとって「責任をとる」のは、かなりストレスは発言なはず。
そんなことを言ってくれた人は、現職中、数えるほどしかいなかったから。

忙しいのに時間をとってくれて、いつも指摘を受ける課長補佐を交えて、このプロジェクトの課題や停滞の原因、不安に思っていることを丁寧に聞いてくれた。

そして、課長補佐へフォローしつつ、事業が進むよう道すじを立ててくれた。

私を信じて、思うようにやってごらんと背中を押してくれたのだ。

そこから、私の風向きも変わった。
A課長の言葉がお守りになり、吹っ切れたのだ。

せっかく担当になったのだから当たって砕けろの精神で、苦手だった農業者さんとの打ち合わせや農協さんへのお願いのため積極的に動いた。

自ら足を運んで、説明や調整のために訪問を重ねた。

すると、農業者さんが次第に心を開き協力してくれるようになった。ご自分たちの想いを伝えてくれたり、業務後の打ち上げに呼んでくれたりするようになったのだ。

その関係は私が農業部門を異動して、産休に入る34歳まで続いた。

そのプロジェクトも2年で、実績が積み重なった。活動を共有するため、同様の事業をしている団体が集まる場で発表することもあった。

発表の後、夜の東京に繰り出した。

12月の東京は、栃木と違ってイルミネーションの電灯の数が桁違い。昼間のような明るさと、人々の高揚した明るい顔を見ながら、農業者さんと歩いたのが懐かしい記憶だ。

その他にも先進地へ視察に行ったり、他団体との交流も活発化したりした。

人と話す機会が増えると、今まで影を潜めていた対人スキルがブラッシュアップされるようになった。

人との交渉や上司への説明が大の苦手だった私から、コミュニケーションが上手いといわれる人間になったのだから人生は不思議だ。

課長の一言がなければ、私は自信をなくし心を病んでいただろう。

何の確証もなくとも、A課長が信じてくれたからこそ私はギアを上げられた。誰かに信じてもらえて、その上「責任をとる」と言える度量が私にあるのだろうか……

公務員を辞めた今でも、A課長のあの言葉がずっと心の奥底に刻まれている。

私の可能性を引き出してくれたA課長は、私が異動して数年後に病気で他界した。

60歳前の早すぎる別れであった。

今の私は公務員を辞した身だけど、あの頃と働き方は変わらない。

目の前の方のために心を尽くす。
自分のできる限り、全力を尽くす。

A課長が信じてくれた自分でいるために、一生をかけて自分のあり方を問い続けたいと思う。

これは、Webライターラボのコラム企画「仕事をしていて嬉しかったこと」をもとに書いたものです。

Discord名:冨田裕子(おーつー)
#Webライターラボ2407コラム企画

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