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夢は叶ったけれども・・・

私もケーキ屋さんになろうかな。

〇〇ちゃんと同じ学校の先生になろうか?

私は小さいころに夢を持たない小学生だった。夢がないから、人が話す夢に感化されて真似する子。

だから、なりたい夢を聞かれるのが苦手だった。

大人は、子どもであれば夢を持っているもんだと思っているのだろうか?純真な子どもたちのキラキラした表情から発せられる夢を聞いて、幼かったころの自分にトリップしていたのか。

いずれにせよ、苦手なやりとりだった。

そのやりとりが中学3年のときに再来した。

文集に載せるために、1人ずつ将来の夢を書かねばならないという。

「さて、どうする?」

当時は学科の中では、英語が好きだった。
英語を使った分野に進みたいとぼんやり思っていたので、あれこれ考えた。

けれど、中学生にそこまでの知識はない。
今みたいにネット世界が発達していない25年前は、偏った情報しか得られない。

唯一思ったのは、通訳

でも、正直ピンときていなかった。

英語は好きだけど、誰かが話すことを訳して、私は何がしたいのか?

そんな逡巡を繰り返した。

考えて考えて考え抜いて、たどり着いた。


それは、




お母さんになること

周りは

  • バスガイド

  • 社長

  • ジョッキー

そんな具体的な職業が出ている中、お母さんってね…

自分でも恥ずかしかったけど、揺るぎない想いがあった。

母への尊敬の念だ。

私は中学生のときに、荒れに荒れた思春期を送っていた。腹が立つと思いっきり音を立てながら2階の部屋に行き、力の限り扉を閉めたものだ。

私は腹が立っているんだ!

と、全力で示すかのように物に当たっていた。

それでも気持ちが落ち着かないと壁や扉を蹴り飛ばした。実家の元・私の部屋はヒビが入った痕跡が今も残されている。

恥ずかしい私の過去だ。

怒りの理由は、今となっては覚えていない。
きっと些細なことであったのだろう。

でも、自分でも制御できないくらい怒り狂っていた。そんな面倒な私を、決して母は見放さなかった。

一度だけ、母に平手打ちをされたことがある。

母に対して、
「うるさい、クソババア!!」

と言ってしまったとき。

あっ、言い過ぎた。。。

心の中では後悔していたけど、言葉が出てしまったら取り返しはつかない。

すると、母の手が飛んできて、心底驚いた。

その後、何を言われたかは覚えていないけど、母を叩かせてしまった申し訳なさは今でも深く深く刻まれている。

私は学校では、どちらかというと落ち着いた子だった。先生から頼られることも多かった。
しかし、友達間や後輩との間では仲違いすることもあり、内心はモヤモヤしていたのだと思う。

そんな姿を母は見逃さなかったのだろう。

そして、視線はずっと私に向いていて、いつでも味方でいてくれた。決して慰めの言葉をかけるわけではないけど、いつも視線を感じていた。

だから、私も母のような母になりたかった。

社会人になり、その思いはすっかり忘れてたいたけど、30歳に友達6人の結婚式に参列して、急に結婚したいと思い立った。

世界中に1人くらい、私を必要としている人が絶対にいる!だから、神様、その方と引き合わせてください!!

来る日も来る日も願い続けた。

私が持っているすべてを手放すことになっても構いません。理解者に出会いたいです!

そう思い続けていたところ、友人の紹介で出会ったのが夫だった。

今までお付き合いした男性とは明らかに違うタイプだったが、お互いに惹かれてトントン拍子で結婚。

その後、またもや願い始める。

神様!私は「お母さん」になるのが夢でした!どうぞ私の元に赤ちゃんが来ますように!!

いや、絶対に来る!!

眉間に皺を寄せながら、来る日も来る日も願い続けたら、結婚式が終わり、ハネムーンから戻ってきたらすぐに懐妊していた。

いわゆるハネムーンベイビー。

そんなこんなで、娘が産まれた。

そして2年後、またもや神様に祈る!

神様!私は子どもにきょうだいを授けたいです!何卒、願いを聞き入れてください!
もし無事に授かれたら、あとはすべてをなくしても構いません。

すると、子作りを始めてすぐに懐妊。

その後、無事に出産し、息子が誕生した。

この経験から、私の子は願いを聞き入れてやってきてくれた「神様の子」だと思っている。

それと同時に願った手放しも叶ってしまったのは、大きなサプライズではあったけど。
おかげさまで、仕事も住まいも人間関係もすべてリセットすることになった。

祈りのとおり、私は「お母さん」になる夢を果たした。けれど……。

現実はうまくいかないことばかりだ。
特に、息子との関係にはずっと悩んでいる。

息子は登園前に踏切を見るのを好む。しかし、私には無意味に思えてしまい、その時間が嫌すぎて、今日とうとう息子に伝えてしまった。

ママさ、仕事があるから早く幼稚園に行ってほしいの。ママは踏切が好きじゃないから、ずっと見てるのもうイヤなの。

ママから発した言葉を、まっすぐ前を向いたまま、息子はじっと聞いていて黙り込んだ。

すると、

「ママのじてんしゃにすわる」

と、サドルに乗ってきた。

息子が乗っていた補助輪自転車を、電動自転車の後部座席に引っかけて押して歩く。

しかし、後ろに積んだ補助輪自転車のせいで想定より幅が大きいため、何度も標識の棒に引っかかる。そのたびに、イライラが増していく。

幼稚園に着くと、

「〇〇くんの担当の先生、ずっと待ってましたよ」

と先生から言われる。

息子は発達がゆっくりで、今年から加配の先生がついてくれたのだ。

加配制度とは、ほかの子と同じように園生活を送ることが難しい子にもう一人先生がつき、生活面や集団参加をサポートしてくれる制度がです

【参考】https://copelplus.copel.co.jp/column/

そうは言っても、時間どおりに登園させるのがどれほど大変か…

「そうですよね。でも、なかなか時間通りには難しくて…」

と言い訳じみた言葉を発する。本音は心に押し込めて。

息子を引き渡したのが、午前9時40分。
自宅を出て、1時間近くが経っていた。

電動自転車をこぎながら、ふいに涙が溢れてきた。勝手に流れる涙は止まることを知らないのか、次々と流れていく。
私の感情を無視しているかのごとく。

あんなにも恋焦がれて、授かりと願ったわが子。でも、育児はうまくなどいってない。

不甲斐ない母で、自分の欲求を満たすために息子に冷たい言葉をかけてしまった。

我ながら、情けない。

子育て6年目でも、まだまだうまくいかない。涙がとめどなくあふれるので、右肩のシャツで濡れた箇所をぬぐった。

きっと、子どもが成長しても同じように不安は続くだろう。うまくいくことなどないかもしれない。

けれど、自分にできる精一杯で向き合うことはできる。それが私にできる誠意だ。

うまくできなくてもいい。
自分にできる最善を尽くせばいい。
そして、苦しくなったら周りに頼ろう。
分からないことは専門家に聞けばいい。

1人で抱え込まないで。

「お母さん」になる夢は叶ったけど、道のりはまだまだ遠い。

私は一体、どんなお母さんになりたいのだろう。

私の母のような視線を逸らさない人だろうか。
まだ解は出ていない。

白地に黒のドットが描かれたシャツの右肩だけは、涙でふいたときに付いたファンデーションのうすだいだい色に染まっていた。

それは、子育てに奮闘している証のように堂々としたものに見えた。

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