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「人生論ノート」 三木清

「人生は仮説にすぎない」と言ったのは、三木清です。
彼は、「人生が仮説的であるのは、それが虚無につながるためである」と説いています。
「虚無」とは、「人間は死すべき存在である」「メメントモリ(memento mori・・・ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘るな」という意味)のことと言うことができるでしょう。
人間が考えるということは「仮説的」です。考えること自体が、仮説的であることを本質にもっています。
「人間は考える葦である」と言ったのはパスカルでしたが、葦の弱さは「虚無的」とも言えるでしょう。
思想自体が仮説的であるため、何ら結論を生み出さない人生も仮説的であると言うことができます。確実なのは、死それだけなのかもしれません。

「思想が仮説的であるのは探求が続くからだ」と三木は言います。
探求が続く限り、結論はありません。
「人生も答えを探し続ける探求の連続である」という点で、「人生は仮説的である」とさえ言うことができます。
だからこそ、人生について、いちいち深刻に、意味など考える必要はないとも言えます。生きるプロセスそのものが、全て仮説的で答えはないのです。
「生きる意味がわからなくなった」と深刻に悩むことさえ、愚かであると言えるでしょう。

「人間は考える葦である、だからこそ素晴らしい」と言い切ってしまえば、悩む必要もありません。
吹けばとぶような「葦」に、たいして意味はないからです。
仮説的な人生に、いちいち深刻な意味を求めるからいけないのです。

答えが出ないことを大いに喜ぶべきです。
仮説的であることは、大いに喜ぶべきことです。
「その場限り」でよいのです。

でも、「思想的」に考えるべきです。
考えない人は、人間とは言えないからです。

「考えること」と「悩むこと」は違います。
わずかずつでも毎日成長する「葦」であり続けることは、仮説的な人生そのものと言えるでしょう。
探求をやめない「思想そのもの」とも言えます。

「葦」は悩みません。
ただ成長するだけです。
「悩む人間」は植物以下と言えるかもしれません。
仮説的な生を悩むことはありません。
「悩む人間」は思考が停止しています。
「思想がない」=だから悩むのです。
「人よ。悩むな!考えろ!」と声を大にして言いたいです。

人間は、「考えること」を天から与えられたすばらしい存在です。
だからこそ生きるに値するのです。
ただし「仮説的」であることを忘れてはなりません。

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