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平常心是れ道 【『無門関』十九則】
春に百花有り、
秋に月有り、
夏に涼風有り、
冬に雪有り。
若し閑事の心頭に挂くる無くんば、
便ち是れ人間の好事節。
人間にとって「平常心」ほど難しいものはありません。
入学試験や就職試験は言うに及ばず、ありとあらゆる大会やコンテスト、試合や発表会など、人生の行く末を左右するような勝負時は、誰もが遭遇するものです。
平常心であればうまくいくはずのことも、力みすぎて普段しないようなミスをしてしまったり、逆に力を抜きすぎて、漫然とやりすごしてしまったりして、普段通りの能力が発揮できないことは皆が通る道なのかもしれません。
春は春らしく、夏は夏らしく、秋は秋らしく、冬は冬らしくする。
これができれば、どんな道であっても達人と呼ばれる域にある人と言えるでしょう。
『南方録』には、千利休の次のような逸話が残されています。
或人、
炉と風炉、夏冬茶湯の心持、極意を承りたきと
宗易に問われしに、
易こたへに、
夏はいかにも涼しきやうに、
冬はいかにもあたゝかなるやうに、
炭は湯のわくやうに、
茶は服のよきやうに、
これにて秘事はすみ候由申されしに、
問人不興して、
それは誰も合点の前にて候といはれければ、
また易のいわく、
さあらば右の心にかなふやうにしてご覧ぜよ。
宗易客にまいり御弟子になるべしと申されける。
【現代語訳】
ある人が宗易(利休)に尋ねました。
「炉と風炉、夏冬茶湯など、
茶道の極意とはどのようなものでしょうか」
利休は答えます。
「夏はいかにも涼しきように、
冬はいかにもあたたかなるように、
炭は湯のわくように、
茶は服(呑み具合)のよきように。
これにて秘事はすみ候」
質問した人は、いかにも不満げに、
「そんなことは当たり前じゃないか」
と言いました。
それを聞いた利休が言います。
「それが本当にできるなら、
私はあなたの弟子になりましょう。」
どのようなことでも、「自然体で無心に行うことがいかに難しいことなのか」が、利休の言葉をみてもわかるでしょう。
ここで一番問題となるのは、人前で実力以上に自分を見せようとする「虚栄心」です。
晴れ舞台だからと言って、良いところを見せようと格好をつけたとしても、普段やっている以上に力を出すことはできません。
「本番は普段通りに、普段は本番のような緊張感をもって事に当たる」
というのは、ここぞという大切な場面で、自分の実力を最大限に発揮するための極意と言えます。
『無門関』にあるように、閑な時にボーッとして気を抜くようなことがなければ、どんな時も「最高のタイミング(=好事節)」です。
そこには、「調子の善し悪し」という概念などありません。
自分の周りを見渡してみれば、すべての生物が、日々、生成化育し、進化を続けていることがわかります。
誰も見ていないから・・・と休んでいるものなど一つとしてありません。
そんなことをしていたら、厳しい生存競争の中で生きていけないからです。
「人間の好事節」とは、一年365日、一日24時間すべてが「最高の時」であり、「最高のタイミング」であり、「最高のチャンス」であるということです。
これこそが、「春は春らしく、夏は夏らしく」という言葉が表している本当の意味です。
春夏秋冬という天地自然のサイクルで生きている人は、「今日は調子が悪い」などと言い訳をしません。
一分一秒すべてが「好事節」と心得ているからです。
「平常心」とは、このような境地でいることなのです。
野辺に咲く草花を目にした時、
自分はこの花のように、
天地自然のサイクルの中で、
無心に自然体で生きているだろうか
・・・などと、ふと考えてしまいます。
春は春らしく、
夏は夏らしく、
まさに「言うは易く行うは難し」といったところでしょうか。
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