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早稲田の古文 夏期集中講座 第19回 源家長について

新古今和歌集に源家長の和歌があります。

「藻塩草(もしほぐさ) かくとも尽きじ 君が代の 数によみ置く 和歌の浦波(七四一)

現代語訳

藻塩草を搔き集めても尽きることがないように、この和歌所で、どんなに歌を書き集めても、尽きることはないでしょう。我が君の御治世の年数に匹敵するように、人々が詠んでおく和歌は、和歌の浦の波が何度も立っては返るように、数限りなく多いのですから。(『新古今和歌集』小林大輔編 角川ソフィア文庫ビギナーズクラシックより)

 後鳥羽上皇によって再興された和歌所の事務長官(開闔かいこう)に任命されたときに上皇に献上した歌だそうです。(同書P108)

「藻塩草」というのは塩を作る海藻のことですが、同時に筆跡や手紙・和歌の意味で使われるそうです。したがって「藻塩草」を「掻く」とは「和歌」を「書く」掛詞となっているのです。

また「君が代の数に」よみ置くとは、歌を「詠む」と数を数える意味の「読む」が掛詞となり、「和歌の浦」は和歌山の地名と「和歌」の掛詞となっています。更に「藻塩草」と「和歌の浦」が海に関する縁語となっています。

修辞をこらした技巧的な歌でありながら、ひきしまった一首になっているのは、重要なポストについた作者の緊張感が歌全体に張りを与えているのだろうという事です。(同書P108)

『源家長日記』が早稲田の法学部2012年度に出題されていますが、源家長という人は、歌が新古今和歌集に採用されるほどの重要人物だったのです。和歌は男女の恋の歌ばかりではありません。

「賀歌(がか)」という、お祝いの歌だったり、「哀傷(あいしょう)歌」だったり、「羇旅(きりょ)歌」といって旅先の体験や感慨の歌だったりします。(西行が有名)「神祇歌(じんぎのうた)」のように、神の詠んだ歌・神にちなんだ歌や「釈教(しゃっきょう)歌」といって、仏や菩薩が詠んだ歌、経典の教えを詠んだ歌もあります。これから、こういう部分にも注目していきたいと思います。

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