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福澤の「非暴力・不服従」【福澤諭吉「学問のすゝめ」】

国法は貴いものであり、国民は国法を守らなければならない。しかし、不正の法に従ってはならない。人たる者は天の正道に従うをもって職分とす。

福澤諭吉著「学問のすゝめ」岩波文庫

これは「国民の職分を論ず」という章にある一節です。
福澤は、「政府というものは分限を越えて暴政を行うことがある」と言っています。

第一、節を屈して政府に従うは甚だ宜しからず。
人たる者は天の正道に従うをもって職分とす。
然るにその節を屈して政府人造の悪法に従うは、人たるの職分を破るものと言うべし。
且つ一たび節を屈して不正の法に従うときは、後世子孫に悪例を遺して天下一般の弊風を醸し成すべし。

福澤諭吉著「学問のすゝめ」岩波文庫P.68

「国法は最大限尊重しなければならないのだが、盲目的に従う必要はない。
国民は常に国法の是非を問うべきであり、その主体性は国民の側にあるのだ」という「法運用に関する独立自尊の精神性」のことを、福澤は謳っています。
国家運営の主体性は、あくまでも国民の側にあります。福澤は、この自主性や自律性を失ってはならないとしています。
「封建時代の身分制の下で、おかみが言うことは御説ごもっともで、ひたすら恐れおののくのは言語道断である」と、その軟弱な精神性を強く否定します。

古来、日本にても愚民の上に暴政ありて政府、虚威をたくましうすれば人民はこれに震い恐れ、或いは政府の処置を見て現に無理とは思いながら、事の理非を明らかに述べなば、必ずその怒りに触れ、後日に至って暗に役人等にくるしめらるることあらんを恐れて言うべきことを言うものなし。その後日の恐れとは、俗にいわゆる犬のくそでかたきなるものにて、人民は只管ひたすらこの犬のくそはばかり、・・・」

福澤諭吉著「学問のすゝめ」岩波文庫

暴政による悪法に恐れおののいて、言いたいことも言えずにいるのは「犬の糞」だとこき下ろしているのです。
善は善、悪は悪とするのが天の正道というものです。
権威を恐れ、権力にこびる軟弱さを福澤は許せないのでしょう。

と言っても、暴力は肯定していません。
福澤は、内乱を強く否定しています。

一朝の盲動にて、これを倒すも、暴をもって暴に代え、愚をもって愚に代えるのみ

福澤諭吉著「学問のすゝめ」岩波文庫

フランス革命のような「暴力を伴う革命」は軽挙妄動であり、暴力は暴力を繰り返すだけだとしているのです。

では、どうするべきなのでしょうか。
福澤は、「天の正道に従い、天の道理を信じて正理を唱えて政府に迫るだけだ」と言います。つまり「言論で闘え」と言っているのです。
これは、「非暴力、不服従運動」と言うことも出来るでしょう。
「学問のすゝめ」が出版された1872年以降、自由民権運動が盛んになりました。
国会開設を目的とした運動の中で、一部では暴力闘争もありましたが、基本的には言論闘争によって、その目的を達成します。
不完全でありながらも「選挙」も実現しました。これは、アジア初の快挙です。
欧米と対等に外交を展開するためには、「民主的な議会」が必要不可欠なものでした。
そこでは「国民による自主独立の国家運営の気概性」が必要となりました。「国家運営の中心は、国民にある」と考えられていたからです。
このような考え方が広まった背景として、当時ベストセラーとなり、今なお読み継がれている「学問のすゝめ」が大きく影響していることは間違いないでしょう。

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