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鷲田清一〈顔〉の現象学 【中学入試の最前線】

哲学者である鷲田清一さんは、今、時の人です。
中学入試、高校入試、大学入試の全てにおいてよく出題されています。
中学入試でもよく出されているため塾の公開模試でも出題されるようになりました。

攻玉社中で平成26年(2回)入試で出題された「〈ひと〉の現象学」についてみてみましょう。

西洋哲学はすべて「存在とは何か」という所から始まります。
「存在論」と言うジャンルは、古代ギリシア・ローマの時代から始まる哲学です。

「現象学」も例外ではありません。
〈顔〉の「存在」と言うものを、現象学的に考えていこうとするのが「〈顔〉の現象学」です。

本文では、次のように述べています。

いざ顔について考え始めると、体と言う場所での現れにしては、他の部位と比べ、現象形態としてあまりに特異な点がすぐに浮かび上がってくる

この文脈は、攻玉社中の選択問題となっています。
この選択問題に回答するためには、「他者のまなざし」というものがどういうものかを考えておく必要があります。

自分のものでありながら、自分では見ることができないまま、他者のまなざしにさらされている〈顔〉というものの「存在」が、「自分にとって異質な存在として客観視できるか」が解答の分かれ道となります。

つまり、単純に「見られる事は恥ずかしい」「見られる事は嫌だ」と言う嫌悪感があるかどうかと言うことです。
「人に見てほしい」「少しでも見られたい」という意識の強い人は、解答を間違うかもしれません。

鷲田さんは、後半の部分で「〈顔〉は、対象としてまなざしを拒むものである」とはっきり書いています。
従って、「拒む」というキーワードが入っている選択肢が正解となります。

「現象学」は20世紀の哲学です。
メルロポンティやフッサールといった数学者たちが、哲学に転向したことで始まったものです。
「理性の客観性」と言うものに徹底的に疑問を投げかけ、「主観性」を重視した哲学です。
そこでは、「人間の知覚」に、絶対的な優先権を認めようとすらしています。

そのため、「科学的分析」は信用しません。
「世界は、科学的分析の前に既に存在していた」と言い切るのです。

これは、フロイトやユングによる心理学の始まりと相まって、心理学的要素がかなり見受けられます。

それは「世界」と言うものを捉え直すことから、自己を「世界的存在」として位置づける「自己存在学」という側面も持っています。
観念より事実」「概念より経験」を重視する側面があるのです。

「小学生に哲学を問う」というのが、今の中学受験の常識です。
ヨーロッパでは、子供のうちから哲学を学びます。
そのため、物の考え方や持っていき方など、全てが哲学的です。

イギリスの家庭では、食後のティータイムに、家族で「神」について、普通に議論しているそうです。
知的に生きること」や「哲学的に生きること」が、「人間として生きること」とイコールなのです。

欧米では、「哲学者」と「詩人」は、非常に尊敬されています。
日本では、両方とも、食べて行けない職業と考えられている現状と比べると、真逆なものと言えるでしょう。
それでも、中学受験の世界では、欧米並みに「哲学をする子供たち」が求められています。
これこそが、中学を受験する大きな意義と言えるのかもしれません。

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