見出し画像

本当の「学問の力」とは 【『論語』と『左伝』に学ぶ】

公伯寮こうはくりょう、子路を季孫にうったふ。
子服景伯しふくけいはく、以て告げて曰く、
夫子もとより公伯寮にわく志あり。
吾が力、なお、能くこれを市朝にせん。

【現代語訳】
公伯寮が子路を季孫に讒言ざんげんした。
子服景伯が憤慨ふんがいしてこれを孔子に告げ、
「季孫は元来公伯寮を疑っているのですから、
私の力でもかれをちゅうして、街頭なり役所なりにさらしものにすることができます。やっつけてしまいましょう。」
といきまいた。

『論語』憲問篇より

ここに登場する子服景伯は、魯国で三桓氏といわれていた孟孫氏の分家の家系であり、魯国の政界の中で孔子派の人でした。
『論語』でも数回登場しますが、『左伝』でも多くのエピソードが掲載されています。(襄公28年・31年、昭公3年、哀公3年・7年・8年・12年・13年など)
魯の国では、三桓氏であった季氏、孟孫氏、叔孫氏が高位にありましたが、子服氏も同じくらい高い地位にあり、しかも今で言う裁判官か検察官のような職務であったことがわかります。
哀公3年の記事をみると、この年の5月、公宮で火災が発生し、桓公と僖公の廟が焼失する事態となりました。
この時、子服景伯が現場に到着した際に、次のように指示したことが残されています。

宰人に命じて禮書を出ださせ以て命を待たしむ。
命、共せざるは常刑有り、と。
校人に馬を乗にし、巾車は轄を脂さし、
百官は官ごとに備へ、府庫は慎守し、
官人は粛みて給し、帷幕を濟濡し、
鬱せる攸之に從い、公屋を蒙葦し、
大廟自り始め、外内、悛を以てし、
給せざるを助けよ。
命を用いざる有らば、則ち常刑有りて、
赦す無からんと。

【現代語訳】
宰人(典礼係)に命じて、礼関係の文書を搬出待機させ、
「手落ちがあれば、定めにより処罰するぞ」と指示した。
校人には馬をつながせ(馬は高価な資産だった)、
巾車にはくさびに油を差させ、
百官それぞれ怠りなく、府庫は盗難に備え、
館人(家屋掛)は警戒を強め、帷幕を水で濡らして
火に近い場所にかぶせ、宮殿の屋根を濡れた物で蔽わせた。
大廟から始めて、内から外へと順次進め、
「人手不足の所を援助せよ。命に従わぬ者は定めにより処刑し、
容赦はせぬ。」と指示した。

書き下し文:『左伝会箋』漢文大系
現代訳:『春秋左氏伝』小倉芳彦訳(岩波文庫)

この記事をみても、子服景伯が職務に忠実で厳格な人物だったことが窺えます。同時に、犯罪者を処刑する権限を有していたことも読み取れます。
孔子にとって、このような人が味方であったことは、非常に心強かったのではないでしょうか。
そのような子服景伯が、冒頭で紹介したように、「公の場で処刑し、そのしかばねを晒し者にする」と言ったわけですから、公伯寮の所業は余程のことだったのでしょう。現代の刑法でも、内乱罪は重罪となりますので、それに近いようなことをやったのかもしれません。
このような事情を知らないと、次に続く孔子の言葉が正しく理解できません。

子曰はく、
道のまさに行はれんとするや、命なり。
道の将に廃れんとするや、命なり。
公伯寮、其れ命を如何。

【現代語訳】
孔子が言った。
(イヤイヤ捨ておかれい。)
道が行われるのも天命。
道がすたれるのも天命。
公伯寮ごときが天命をどうし得ましょうぞ。

『論語』憲問篇より

ここで言われている「道」とは、「学問の道」「礼の道」「徳の道」「自己修養の道」といった意味合いを含む総合的なものです。
ここに孔子の明確な覚悟があります。
「自分は道と共に生き、道と共に死す。」
あしたに道を聞かばゆうべに死すとも可なり。」
自分を活かすも殺すも「命」であるから、公伯寮ごとき小人に命を動かす力などない、と言いたいのでしょう。
「死生命有り、富貴天に在り」です。
めい」とは、「天命」とも「運命」とも「宿命」とも捉えることができるものです。
かつて孔子が宋に赴いた時、桓魋かんたいに殺されそうになった場面でも、次のように断言しています。

天、徳をわれに生ぜり。
桓魋かんたい其れわれを如何せん。

【現代語訳】
天から徳をさずかった身だ。
桓魋ごとき小人に天の徳を左右するほどの力はない。

『論語』述而篇

道には天道・地道・人道がありますが、道に生きる者は人の道というものを大切にし礼を尽くしていれば、やがて天が味方し、何ものも自分の道を邪魔するものなど現れないという強い信念が、孔子にはあったのです。
これこそが、本当の「学問の道」であり、「学問の力」と言えるでしょう。
孔子の言動から、現代の人たちが学ぶべきは、まさにこの点にあるのではないでしょうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?