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森羅万象の言葉 【H・D・ソロー『森の生活』】

いかに選び抜かれた古典であろうと、書物のみに没頭し、それ自身が方言や地方語であるにすぎない特定の書き言葉ばかり読んでいると、隠喩なしに語る唯一の豊かな標準語である森羅万象の言葉を忘れてしまう恐れがある。
それは大量に発表されるが、めったに印刷されはしないからだ。
(中略)
夏の朝など、いつものように水浴をすませると、よく日あたりのいい戸口に座り、マツやヒッコリーやウルシの木に囲まれて、かき乱すものとてない孤独と静寂にひたりながら、日の出から昼ごろまで、うっとり夢想にふけった。
あたりでは鳥が歌い、家のなかをはばたきの音もたてずに通り抜けていった。やがて西側の窓にさしこむ日ざしや、遠くの街道をゆく旅びとの馬車のひびきでふとわれに返り、時間の経過に気づくのだった。
こうした季節に、私は夜のトウモロコシのように成長し、どんな手の仕事をするよりもはるかによい時間をすごしていたのである。
あれは私の生活から差し引かれた時間などではなく、むしろその分だけふだんよりも多く割りあてられた時間だった。
私は東洋人の言う瞑想とか、無為という言葉の意味を悟った。

H・D・ソロー著『森の生活』上・飯田実訳(岩波文庫)「音」より

人の言葉がない静寂の中にいないと「自然の言葉」を聞くことができません。人の思いが自然の微かな言葉をかき消してしまうからです。

溪聲便是廣長舌
渓声けいせい便すなわ広長舌こうちょうぜつ
山色豈非清淨身
山色さんしょく清浄身しょうじょうしんあらざらんや

蘇東坡「贈東林総長老」

これは、中国北宋時代の詩人である蘇東坡が残した有名な詩です。
この言葉は、「東坡とうば山谷さんこく、味噌醤油」と言われていたほど、日本にある五山の僧たちに愛され、禅語として昔から大切にされてきました。
谷川のせせらぎから仏道の真実の言葉を聞きとることができたのを見ても、蘇東坡がいかに深い霊覚者であったかがわかるでしょう。

音もなく香もなく常に天地あめつちは書かざる経をくりかへしつつ

二宮尊徳作

この二宮尊徳の和歌を見ると、彼が日々の過酷な農作業の中でも、天地宇宙の法則にしっかりと耳を傾けていたことがわかります。
彼が薪を背負いながら本を読んでいる姿は、学校の銅像などでもよく目にしますが、彼の素晴らしさは、書物だけではなく、自然の言葉からも多くのものを得ていた点にあります。

これを禅門では「無舌の言語」というそうです。
渓声けいせい便すなわ広長舌こうちょうぜつ」という境地は、無舌の言語を聞くことができなければ、真の意味では理解できないものなのかもしれません。

ソローが言っている「森羅万象の言葉」は、自然の言葉と置き換えてもよいでしょう。
日本人は、昔から自然が発している声に敏感な民族でした。

桐一葉落ちて天下の秋を知る

片桐且元作(伝)

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

『古今和歌集』藤原敏行作

一枚の葉や風の音を聞くことで、天下の行く末を予見したように、「天地自然は全てお見通しである」ことを日本人は実感として知っていました。

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

『新古今和歌集』藤原定家作

静寂の境地、佳景寂寞とした「わび」「さび」の世界に通じる名歌ですが、これこそ、日本人が世界に誇れる感性の一つと言えるでしょう。

ソローは、アメリカの人ですが、この東洋的世界観をよく理解していました。彼の言動を見る限り、もしかしたら、現代の日本人よりも鋭い感性を持ち合わせていたかもしれません。

私たちも、本来の姿に立ち返るためにも、もっと自然の声に謙虚に耳を傾けるべきではないでしょうか。

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