礼無きものは必ず亡ぶ 【『論語』『左伝』に学ぶ
八佾の舞は、天子にのみ許されていた神聖な舞でした。
宗教的儀式において、巫女が神がかって舞い踊ることで、神霊を降ろすという伝統は、洋の東西や時代を問わず、どこでも見られるものでした。
国家を守護するような大神霊に降臨していただくためには、それにふさわしい地位にある人物が、しかるべき手順や手続きをとって厳粛に行うことが求められます。
天皇が即位された時に行われる大嘗祭も、宮中祭祀である「新嘗祭」を大規模に行うものです。これは皇位継承の時に一世に一度の重要な儀式です。
イギリス国王の戴冠式も、ウエストミンスター寺院で行われる宗教的儀式です。儀式の中で最も大切な部分である「身体に聖なる油を塗る」儀礼は非公開です。戴冠式の時に一生に一度しか許されないという冠の儀式もあります。
このように一国を左右するような宗教的儀礼は、現代においても全くゆるがせにできない厳粛なものです。
ところが魯の国の一臣下に過ぎない季氏が、天子にしか許されない八佾の舞を行ったことを、孔子は非難しているのです。
『左伝』の昭公25年の記事ですが、これを見ても、季氏の非礼な行為が事実であったことがわかります。
季平子という人物は、魯国の軍事を担った季武子の孫にあたる後継者です。この後、魯の君主である昭公を事実上国外追放にしたことで当時の盟主である晋の国から問責されるという事態を引きおこした張本人です。
季氏の専権は、「政大夫に逮ぶこと四世」と『論語』(季氏篇)にあるように、季武子・季悼子・季平子・季桓子の四代にわたって続いたそうです。
中でも季平子は魯の国政を専断し、公室をないがしろにした最たる人物と言えるでしょう。
魯の公室の祭祀に事欠くほどに自家の私的祭祀を優先し、36人の舞女が必要なところ、魯の公的祭祀に2人しか集まらなかったのですから、非礼極まりない行いと言えるでしょう。
一事が万事、季平子は日頃から、このようなことをしていたに違いありません。大夫たちの怨みを買うのも当然です。
『論語』にある「八佾の舞」の逸話も、事実であったことが窺えます。
『左伝』には「無礼必亡」という文字が記載されています。
文字通り、礼無きものは必ず滅亡するということですが、礼無き国家、礼無き政治、礼無き為政者は必ず滅亡の憂き目に遭うという教訓です。
「礼無きところには天罰がきて滅亡の道を辿る」というのは、東洋世界で2500年にわたって連綿と続いている倫理観です。
東洋の人々は、常に天というものを懼れ敬い、自己を律して生きてきました。
「人が見ていなくても天が見ている」という価値観は、現代でも連綿と根付いています。
「人が見ていなければ何をしてもよい」「法に触れなければ何をしてもよい」と考えるのは、天を懼れぬ不敬の輩の考え方です。
『論語』(八佾篇)にもあるように、「礼にも敬がいる」のです。
西郷隆盛は「敬天愛人」を座右の銘としていました。
「人を愛する」よりも「天を敬う」方が先なのです。
「天を敬う」とは、天に恥じない人の道を尽くすということです。
「目に見えざる処を戒慎し、耳に聞こえない処を恐懼する」という『中庸』にある修養の道が、天を敬い礼にもとることをしないということにつながるように思います。
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