社会から失われつつある「感覚性」について

私は仕事柄、さまざまなニュースに目を通す機会がある。また、活字好きということもあり、読書に限らずネット上にある多くの情報にも触れてきた。人によっては、「ネットの情報は信用できない」と嫌っている場合もあるだろうが、真贋は自らが判断すればよいと思う。

文字に落とし込まれた情報は、ある種の論理性を付加される。人の思考――すなわち、理性というフィルターを通して、「ろ過」された情報だといえるだろう。それは純粋な知性を探求したり、客観的な視点から考察したりするうえで欠かせない過程だ。一個人に帰属しない「文字情報」こそ、人類の文明的・文化的な進歩を決定づけてきた。個人的には、人間社会を維持する最も重要な要素であるとさえ思っている。

理性のフィルターを通じた「情報の文字化(文章化)」は、他者との共有化を目指して行われるものだ。それは言葉(文章)が「話し相手(読み手)」を想定して生み出されるからだ。「誰かに伝えよう」という意志がなければ、誰も言葉を口にしたり文章を書いたりはしない。個人が記す日記でされ、「未来の自分」という読者のために綴られるのである。

逆にいうならば、文字媒体から得られる情報は「他者との共有が可能」でなければならない。そのため、一次情報から「共有不可能」な部分が削ぎ落とされる。とりわけ、「感覚的」な情報はすべて排除されるのだ。

「人の感覚を表現する文章もある」という反論もあるだろう。だが、それらは「感覚の存在」を伝えることはできても、「感覚そのもの」まで教えてくれはしない。たとえば、ある小説において、肝試しで夜の墓場を主人公が1人で歩く描写があったとする。そこには、主人公の心が不安と恐怖に満たされる姿が描かれているだろう。しかし、「主人公が恐怖している」ことは分かっても、「実際にどのような感覚なのか」までは理解できない。緊張と不安から心臓が跳ね上がるように動悸が激しくなり、呼吸も穏やかではなくなっているはずだが、「正確な感覚」まで体感するのは不可能だ。

私は別に「言葉で表現できるものには限界がある」などと、当たり前のことを主張したいのではない。本来の情報には――本物の情報には「感覚性」が伴っている点を思い出してほしいのである。

上記の例で挙げた「恐怖」という言葉が表現するのは、単なる情報ではない。そこには本来、人が動物的に感じる危機感があり、それは周囲への警戒に向けた肉体的な反応を伴う。動悸が激しくなるのは、すぐにでも逃げられるように体が準備をしているからであり、ちょっとした物音にもビクッとしてしまうのは聴覚が研ぎ澄まされているからだ。恐怖とは、単なる概念ではなく、動物としての人間が示す「物質的な状態」なのである。しかし、言葉になった「恐怖」からは、そうした「感覚性」を直接理解することはできない。

この「感覚性」の欠如は、言葉を利用したコミュニケーションにおいて重要な意味を持つ。なぜなら、感覚は「人によって違いがある」からだ。恐怖を感じるという場面において、心拍数の上昇があるといっても、その度合いは人によって異なる。同じホラー映画を観ても、心地よい緊張感を覚える人もいれば、胸が苦しくなるような人もいる。これらの違いをいちいち考慮しながらコミュニケーションを図ろうとすると、やりとりするべき情報が膨大になりすぎてしまう。つまるところ、「感覚性」の情報量はあまりにも「大きすぎる」のだ。だからこそ、言葉(文章)から感覚性は排除されているし、されるべきなのである。

では、言葉や文字情報から削ぎ落とされる「感覚性」に意味がないのかと問われれば、それは違う。むしろ、本当に重要な情報の多くは「感覚性」のなかに含まれている。最も分かりやすい例は、「技術」に関わるものだろう。

世の中には、いわゆる「ハウツー本」と呼ばれるものが数えきれないほど存在している。仕事や趣味、あるいは生き方そのものに関する「上手に進める方法」が記されているのだ。ところが、これからのハウツー本の多くは、購入者にとって「役立たず」のまま終わることが多い。もちろん、なかにはそもそも間違った内容が記載されているものもあるが、内容が正しいものであっても「役立たず」になるケースは減らないのである。そして、その理由こそが「感覚性の欠如」なのだ。

私は拙いながらも絵を描く趣味があり、ハウツー本やテクニック本を何冊も読んできた。今となれば、実によくできた本もあったと思うし、「上達されてくれた」と感謝したい本もある。だが、それらの本を読み始めた当初は、いくら内容に目を通してみても上達に繋がらないように感じた。本の内容を実践しても、「全然変わらない」としか思えなかったのである。しかし、それは本の内容が間違っていたからではない。私が、その本に書かれなかった「感覚性」を理解できなかったことが原因だった。

ハウツー本には、ほかの書籍とは異なる点がある。それは、書かれている内容について、読み手が「実践」することが求められるところだ。内容を理解するだけでは意味がなく、実践してこそ価値が現れるのだが、実践というのは「感覚性」を取り戻す作業なのだ。

たとえば、「絵を描く」作業の場合、〈物を正確に見る〉〈筆を思い通りに使う〉という2種類の「感覚性」が必要となる。ところが、ハウツー本を利用するような人は、こうした「感覚性」を身につけていない。かといって、ハウツー本の内容は文字(イラスト付きの解説も含める)であるため、「感覚性」までは教えてくれない。「感覚性」を持たない人間が、いくらハウツー本に従って絵を描こうとしても、思い通りの絵にはならないのである。

「それならハウツー本なんて意味がない」と思うかもしれないが、そうではない。むしろ、ハウツー本を手本にしながら「感覚性」を身につけることは重要だ。ハウツー本は、「1つの完成された技術」における「共有可能な情報」である。それに合わせた「感覚性」を手に入れることができれば、その時点で「完成された技術」を体得できるからだ。もし独学で身につけようとすれば、「感覚性」と「技術」の両方を同時に練り上げていく作業が必要なわけだから、求められる時間や労力は膨大だろう。そういう意味で、ハウツー本は(内容が間違っているものは別として)決して役立たずなどではない。

しかし、多くのハウツー本は購入者の糧になることもなくホコリを被ることになる。それは文字情報における「感覚性」の欠落を理解しない人が多いからではないか。そして、これは何もハウツー本に限ったことではないように思える。

世の中に出回っている文字情報のほぼすべてが、「感覚性」を削ぎ落とすことで成立している。そのため、情報を正確に読み取るためには、消えてしまった「感覚性」を取り戻すことが要求されるはずだ。だが、実際には「感覚性」は文字のうえからは読み取れない。そこで必要になるのが、「想像力」なのである。すなわち、目の前の文字情報から削られたであろう「感覚性」を想像し、疑似的に「完成された情報」として取得するのだ。

ただ、この方法には大きな障害がある。それは、「感覚性の想像には類似の感覚に関する記憶」が不可欠な点だ。「いじめられたことのない人に、いじめられっ子の気持ちは分からない」という人がいるが、「感覚性の想像は類似体験なしには成立しない」というのはこれと同じである。

こうなると、ますます文字情報の価値が分からなくなる。同じような体験がなければ、情報を理解できないというなら、「実際の体験」だけが意味を持つことになるからだ。だが、私はそうは思わない。なぜなら、「感覚性の再現」には、「複合的な想像力」や「連想的な想像力」を利用できるからだ。自分の持つ複数の体験から、必要な「感覚性」を集めて、未体験の情報を正しく読み取る――これが人間の「想像力」の最大の特徴だろう。

かつて、多くの文学者や哲学者は、自らが記す本から読み手が「感覚性」を取り戻せるようにさまざまな工夫を凝らしてきたように思う。同時に、読み手側も「感覚性」を再現することにこそ、本すなわち文字情報の価値があると(それこそ感覚的に)理解していたのではないか。

だが、現代においては、文字のみが情報として流通しているように思えてならない。文字のみの情報は、単なるデータでしかないが、それだけが「価値あるもの」として認識されている社会は不健全だろう。データだけの、知識だけの情報をいくら集めたところで、「感覚性」が取り戻されなければ「役立たず」のままである。役に立たない情報をありがたがって集め、その量を競い合うことに意味などないはずだ。

人が文字から、そして情報から得るべきなのは、そこから励起される「感覚性」である。そのためにも、できるだけ多種多様な実体験と、それらをもとに想像される「感覚性」を取り戻す訓練は欠かせないだろう。

結局のところ、何事も「練習あるのみ」なのではないかと思い、私は下手くそな絵を描きながら残念な気分に浸るのである。

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