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3年
存在そのものが表現なのかもしれない。最近はそう思うようになった。しかしそれは自分自身で表現するつもりでそこらにいるわけではない。しかしたちまちそれは身体から、顔から溢れ出ている。ファッションも職業も身分もあくまでも仮装に過ぎない。それらは全て、みるみるうちにはだけてゆく。目の前に現れた彼彼女らが話す仕草、声、リズムそしてそれらの元となる身体そして顔が全てだ。ギターをかかえ、あるいはペンを持ち、またはアスリートとして在ろうとするも、それ以上に溢れ出ているものがある。
あの、殺伐としたマスク社会を思い起こして欲しい。僕たちが日々目にしていたのは顔を失った人々ばかりであった。存在しえないイメージを勝手に当てはめてなんとか正気でやり過ごしていた。そこらには人から顔が失われ、ただ身体だけが残っていた。欠陥状態のコミュニケーションを優先したのだ。そうして自分自身へと向かっていった誰もがストレスをかかえただろう。自分自身への旅にも出掛けただろう。でもやはり、どうにもならなかった。
あの時代はなんだったのだろう。過ぎたものは過ぎたものとして楽観的に過ごしてしまう国民性みたいなやり過ごし癖が見え隠れしている。しかしいまだにアザとなり、表現を放棄しかけた人々がそこらに取り残されている。
未知ではあったが全くもって殺人ウイルスとは言い難かったものと死をイメージとして直結させた罪は深い。
見たくても見えなかった顔に代わり、日本の妙な部分がずっと見えていた3年だった。
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