lowsun
悩む私と少年のままの僕とで
日々の創作活動で感じたことを呟こうーー
日々創作しながら仕事しながら生活しながら生きています。そんなこんなで内容はめちゃくちゃなnoteですが、一応は創作物販売してますので良かったらご覧になってください。 上のURL もしくは私のクリエイターページからBASEへ飛んでいければ商品ご覧になれます。あと初めての販売になりますので値段設定もよくわかりません。 値段交渉、画像追加、作品についての説明等なにかありましたらこちらのコメントもしくは直接メッセージください!
ばたばた のろのろ だらだら しくしく した日々 ただ生きていたんだろう いずれにしろ 時は過ぎていった またこうやって思う あの時の担当者はもうここにいない いまはこの僕だ
「意味」は、言語的な論理の規則によって構成されるものではなく、ただ人間どうしの言語的関係が生み出す了解性としてたえず生成する。 新・哲学入門 著竹田青嗣 P76
引越しを機に、都市でいかに暮らすことは可能かということ考えるようになった。そしてこれまで以上に都市にのめり込めなくなってしまった。都市で生きるとはどういうことかという自分自身に投げかけた問いに対して、一先ずこたえを出すには演者から脱する必要があったからである。 先月、5年暮らした住宅地から川崎市の丘陵地帯に越してきた。少しは慣れてきたものの、駅までの道中はとにかく急勾配な坂道が上り下りを繰り返すために以前よりも体力を要する。また所々に開発を逃れた緑地が顔を覗かせる。以上の2
転居先のキッチンの正面には小窓が設けられている。そこを通じて、小鳥やセミ、下校途中のこどもたちの姿を感じる。ここは以前とは違う。”忙しい車”は通らないようだ。駅を降りればすぐに、とてつもない急こう配が待ち受けている。そうここらは丘陵地帯である。そして何よりも緑が多い。もう身体はこの場所に馴染んて来たようだが、働く手立てをどうしようか。いったい何に追われ何から逃げるようにしているのだろうか。この部屋には誰が追ってくるのだろうか。小窓から僅かに不安を吐き出しながら、考える。
24の夏が終ろうとしている。どの歳の時よりも寂しい季節であった。いつの時よりも猛暑だったにも関わらず、ぼくの意識は冷たい風の中にあった。これは、愛の持ち腐れだろう。 少年の時にはないなにかがぼくのここの中に溢れ出している。誰かに捧げなければならないものなんだろうこれは。これから生きていく上での世界像はもう完成しているのだずっと前に。ただ漠然とこの地球上であそぶ主人公であったぼくはもういない。これからは誰かに向かって行かねばならない。みんなで切り拓いた世界で愛を育まねばならな
あらゆる希望が失せていく。身体の赴くままに一日をやりを過ごす。もはや絶望の向こう側にでも行ったかのようだ。しかし、心が絶えず求める終りを全く見向きもしないこのからだは、絶えず命を生かそうと指示を出してくる。
受け入れ難い今が過ぎ去っていく。社会的なスケジュールが全てを正当化してしまう。もはや何も描けなくなった。言葉を綴る事さえ億劫だ。つまりは現状を知る事さえ諦めかけている。脱脚への道を探し求めることさえ放棄したい。それは生きることの否定かもしれない。ここ数カ月で形成された絶望観が暴れているようだ。何もかもがうまくいかない。そうして踏ん張る気力さえ完全になくなっている。失った訳ではない。踏ん張ることさえ諦めたのだ。簡単に未来を決めてしまうようになったのだ。今はいつも受け入れたくない
目の前でどんどんと時間が流れて行く。先へ先へと様々なたのしみ事を待ち望みつつ生きていた当時とは違い、過去に想いを馳せつつある今とではまるで時の流れが違っている。心があらゆる地点でおいてけぼりにされている。今にのめり込むことができなくなっている。
なぜ私たちは生きているのかよりもなぜ生きようとするかが気になる おそらく一生わからない
絶望を抱えて生きる日々が続く。消えることはない。後ろを振り返ればいつもそこにいる。それは絶えず過ぎ行く現在という過去のことである。この目の前で流れる時間は一体なんなのだろうか。 もう一人よがりになることはやめた。住居を引っ越すことにした。おそらく生活環境が悪いのだろうと判断した。生活から改める必要があるのではないかと、強く意識するようになった。労働と余暇という2極化した生活然り、そのサイクルの中で抗いながらも弱っていく心を発見した。ある決められた時間の中でのみ、照準を合わせて
なにかが変わっているような変わっていないような... 気温が変わっている。湿度が変わっている。汗の量が変わっている。木々は生い茂っている。目に入る緑の量が変わっている。暑くなってみんなは少しゆっくりし始めた気がする。そうして冬に比べてなにかが変わっている。冬の凍てつく寒さはもはや思い出せる気がしない。いつの間にかあの白い吐息も出なくなっている。なにもかも忘れてしまった気がする。それらは良いことなのか悪いことなのかさえわからない。もうそれらは過去であり、無かったことなのかもしれ
そうにも こうにも どうにも なぜ どうして なんで… 絶望にて 胃に負担のかかる体勢で 明日を考える 明日を考える先になにがあるのだろう
「絶望はまた別の意味で一層明確に死に至る病である。この病では人は断じて死ぬことはない(人が普通に死ぬと読んでいる意味では)換言すればこの病は肉体的な死をもって終わらないのである。反対に、絶望の苦悩は死ぬことができないというまさにその点に存するのである。」 死に至る病 著キルケゴール
存在そのものが表現なのかもしれない。最近はそう思うようになった。しかしそれは自分自身で表現するつもりでそこらにいるわけではない。しかしたちまちそれは身体から、顔から溢れ出ている。ファッションも職業も身分もあくまでも仮装に過ぎない。それらは全て、みるみるうちにはだけてゆく。目の前に現れた彼彼女らが話す仕草、声、リズムそしてそれらの元となる身体そして顔が全てだ。ギターをかかえ、あるいはペンを持ち、またはアスリートとして在ろうとするも、それ以上に溢れ出ているものがある。 あの、殺伐