原爆の日ということ

なにか芸術性を持って伝えることとは違って
コミュニティの人々と振り返る機会がこの原爆の日なんだと思う
これは孤独と向き合う所謂美術という芸術とは違う
これが興味を持つキッカケとしては弱いが自分を取り巻くコミュニティと持続的に向き合う美術にはあまりない要素に思う
これは個人主義がまだ無かった(又は弱かった)からこのような形式が当時は強かったのだ、ただ今や宗教は死にこの形式は弱いものに堕ちている
そういった面で伝わりづらいものなのだと思う

芸術家が死んだときはそれと似たようになる
まぁでも世界はそんな変わってなくて
僕の目からは毎日小さな原爆が投下されている日々がみえる
それに向き合ったり疲れたら休んでいる
自分の目から見える風景と原爆の話を並べるとリアリティが生まれる
そこから暮らしを考える、原爆の地続きに暮らしを考えよう

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