「書く道」しかなかった
(以下は、近々発表を予定している、共著の原稿の一部です)
■二極化するライターの仕事
「それで、理系ライターって実際のところ稼げるの?」
本書を読んでくださる多くの人は、きっと我々と同じくライターをなりわいとしている同業者の方々か、もしくはこれから「書いて生きていきたい」と考えているライター志望の方だろう。
そうした人々にとって、冒頭の疑問は、我々チーム・パスカルに聞いてみたいことの一つではないだろうか。金の話というのは、どういう方向性で書くにしても難しいものだ。現代社会で生きていく上で金銭は必要不可欠の道具だが、一方で金銭だけを目的に仕事をする姿勢は、決して褒められたものではない。
しかし実際の話、ライターが仕事を受けるかどうか決める際に、提示される原稿料がいくらなのかは、かなり重要な検討事項だ。いくら興味があるテーマであったとしても、報酬がまったくワリに合わなければ、仕事を受けることは基本的にない(基本的に、と書いたのは、たまに採算度外視で、取材してみたかった相手のインタビューなどは受けてしまうのが、私を含めて多くのライターの性だからだが)。
この10年ほどの間にライターの収入は明らかに二極化の度合いを強めた。私が直接的・間接的に知っている人だけでも、年間売り上げが2千万円を超えるだろうと思われるライターは十指を超える。少し前に、ある著名な女性作家が、「印税と原稿料だけで生活できている作家は、日本に50人ぐらいしかいない」と言ったと聞くが、文章を書くことだけで生計を立てているライターは、小説家よりもはるかに多いはずだ。
ビジネス書の執筆を中心に活躍し、出版業界でトップ中のトップのライターとして知られるある方などは、過去10年間で3億円以上を稼いだことを、著書のなかで公表している。まさにプロ野球選手並みの稼ぎだが、ライターの仕事はプロスポーツと違って、やる気さえあれば50代、60代になっても続けることができるのが職業としての魅力だ。
だがその一方で、ライターといえば「稼げない仕事」というイメージも以前から根強く存在する。そして、そのイメージは、決して間違っていないことも事実である。
スマホの普及にともない、ネット上で「不特定多数に読ませる文章」の書き手の需要は爆発的に増加した。現在、ウェブコンテンツの書き手を集める中心的な「場」となっているのが、インターネットのクラウドソーシングサイトだ。代表的なサービスを覗いてみて「ライティング」で仕事を検索してみると、山ほどの案件を見つけることができる。
募集されている記事のテーマは「サプリメントの口コミ作成」「婚活サイトの紹介記事」「ローンや保険についての解説記事」などさまざまだ。しかしその多くは記事単価にして数百円、一文字あたり0.5円程という、子どもの小遣いレベルのギャラである。子育て中で外に働きに出るのが難しい主婦、学生、あるいはちょっとした副業を探すサラリーマンが、自宅でできるアルバイトとして取り組むならともかく、本業とするのはどう考えても厳しい。
2015年の調査結果だが、大手クラウドソーシングサイトで月収20万円を超える金額を稼いでいる人は、何十万人もの登録者のうち、わずか百人ほどしかいないそうだ。年収2〜3千万円のライターと、1文字1円以下の原稿料で書くライター。もちろん数で言えば、前者はイリオモテヤマネコぐらいに少なく、後者のほうが圧倒的に多い。芸人の世界では、一握りのトップが連日のようにテレビのバラエティやCMに出演し、多くの収入を手にするが、その影には無数の食うや食わずの売れない芸人がいる。ライターの業界もそれと似た構造にある。
ただ芸能界とライター業界で大きく違うのは、「知名度」や「人気」が必ずしも報酬の多寡を決めるというわけではないことだ。自分の名前はほとんど表に出さず、黒子に徹しながらも、何年も安定して稼ぎ続けているライターは珍しくない。
知名度が関係ないならば、ライターの報酬の「差」を生み出す要因とは、いったい何なのだろうか? どういう力を身につければ、駆け出しのライターは「書いて生きていける」ようになるのだろうか。本稿ではそのことについて、自分自身の独立の顛末および、チーム・パスカルの結成時からの過去を振り返りながら、改めて考えてみたい。
■「書く道」しかなかった
我々が「理系ライター」を名乗るチームを2011年7月末、京都で結成したのは、文字通り「書いて生きていく」ための方策の一つだった。そのとき私は約4年間働いていたある小さな出版社を辞めた直後で、37歳になろうとしていた。
その会社は2006年創業で、東京の世田谷区に本社があった。私が勤務していた時の社員は8名。東日本大震災が起きたことをきっかけに、2011年4月、京都府の地方都市に京都オフィスを出した。
私は営業担当の後輩とともに、その京都オフィスへの異動を命じられた。しかし赴任してすぐに「これは厳しいな」と感じた。奈良と京都のちょうど真ん中に位置するその市は、出版ビジネスとはあまりにも縁遠い土地だった。
出社するうちに閉塞感が募り、私は3カ月で退社を決めた。詳細は記さぬが、それ以外の道を選びようがなかった。そのとき、私には専業主婦の妻と、2歳の息子がいた。退職の決意を妻に伝えると、すぐに彼女は職探しを始め、京都新聞社のアルバイトの口を見つけてきてくれた。
さて私自身の仕事をどうするかだ。「どこかの出版社に再就職する」という道は、はなから考えていなかった。そもそも出版にかぎらず、メディアビジネスの本場は東京である。京都や大阪に、教科書や情報誌を発行する出版社はいくつかあるが、中途採用はほとんどなく、いい歳をした自分が門を叩いたところで、良い結果に結びつくとは思えなかった。
それにそのとき、私は誰かに雇われるということ自体に、いささか倦んでいた。会社員という立場は給料をもらっている以上、会社の方針に違和感や疑問を抱いても、それに従わざるを得ない。これは自分の性格的な問題でもあるが、それまで2社で働いた経験において、自分から取り組んだ仕事と、そうでない仕事では、結果に大きな差が生まれていた。独立すれば、仕事がうまくいかなかったとしても、すべては自分の責任となる。自分自身が判断をくだしたことに対する責任なら、納得して取れる。そんな諦めに似た思いがあった。
独立するにあたっては、家族で東京に再び引っ越すという選択肢も存在した。メディアの仕事の数は、東京のほうが圧倒的にある。だが東京はまだ東日本大震災の余震で揺れていた。地震直後、妻子を先に妻の実家の神戸に帰し、一人で当時住んでいた武蔵中原の家に戻る途中、立ち寄ったコンビニで食料品や水がごっそりと無くなっていた光景が、強烈な印象を残していた。子どもが大きくなるまでは、妻の実家の神戸の近くに住もうと決めた。
そういえば当時、いっそのこと出版とはまったく関係のない仕事を始めるのはどうだろう、と考えた時期もある。成長著しい東南アジアから何か輸入して、国内で販売する仕事などができたら面白そうだな、などと夢想したものの、ビジネスで使えるような英語力は持ち合わせていない。加えて当時の私は「うっかり失効」により普通自動車免許すら持っていなかった(2年後に20代前半の若者たちに混じって、合宿免許で取り返した)。商売の元手となる資金もまったくなかった。
なんの誇れる実績も、能力も、資格も、資産もない中年男の自分が、仕事上のつながりをほとんど持たない関西で、どうすれば人並みに仕事をして、家族を養っていくことができるだろう。そう真剣に考えた結果、「書く道しかない」と思ったのである。
その判断の背景には、社員時代に手がけていた単行本のライティングの仕事があった。私が働いていた会社では自社で発行する年間8〜10冊ほどの書籍の他に、講談社やPHP研究所といった他の出版社から委託された書籍の編集を、年間に10〜20冊ほど行っていた。私はその編集プロダクション部門を担当しており、ビジネス書や新書などのライティングをそれまでに何冊か手がけていた。
その中には、書店だけでなくコンビニでも販売され、トータルで10万部以上売れた本もあった。会社の業務として受けていたため、私に印税が入ることはなかったが、その1冊で、印税を分け合った著者のところには、中ぐらいのグレードのベンツの新車が買えるほどの金額が振り込まれたはずだった。
印税契約を結んだ単行本が、うまくいって数万部のヒットになれば、数百万円の収入になる。そのことを知った私は、書く仕事に賭けてみようと思ったのだ。それにフリーの文筆業ならば、パソコンとインターネット、携帯電話以外の元手はほとんど何もいらない。ただ問題は、地方に住みながら、ライターという職業で一家の生活を支えられるかどうかだ。関西のライターの多くは、需要の多いグルメや観光などの記事を手がけているが、自分は土地勘がなく、そうした記事の執筆経験もほぼない。関西で「書いて食べていける分野」を見つけ出すことが、喫緊の課題として立ち上がった。
以下、『職業としての理系ライター』に続きます。
こちらからPDFで全文が読めます。私以外のメンバーの文章も読み応え抜群ですので、ぜひご一読ください。
https://bit.ly/2VUm2qA
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