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私の思うエモい文章

ずいぶん久しぶりの投稿である。
先日、東京で活躍されている、尊敬するライターの女性が京都に来られて、お会いする機会を頂いた。かねてよりその方の書かれる文章の「文品」とでも言うべき空気が好きで、いつかお話してみたいと思っていたのだが、ひょんなことから共通の友人の紹介でお目にかかることができ、ライター仲間のMくんも混じえた酒席を設けたところ、文章をめぐる会話で大いに盛り上がった。

そこで話題の一つとして出たのが、「エモい文章とは何か」というテーマである。「エモい」という言葉を、私自身はこれまで文章に書いたことはない。原稿にはなるべく古臭い言い回しを書きたい、という個人的な嗜好以外に大した理由はないのだが、20代、30代の才能ある若い書き手の人々の「エモい」と評判の文章を読むと、なるほど確かに今の時代の雰囲気を伝えている、と感じる。ただ私自身が彼ら、彼女らのような文章を書けるかというと、書けない、とも思う。なぜそう思うかについて書き始めると、それだけで5千字ぐらいになりそうなので、その代わり以下に、私が個人的に「エモい」と感じた文章を書き写してみることにする。

 保安官補は後ろ手錠をかけられたシュガーを事務所の隅に立たせておき自分は回転椅子に座って帽子を脱ぎ両足を机の上にあげて無線電話でラマーに連絡を入れた。
 今事務所に戻ったところです。保安官こいつ妙なもの持ってんですよ肺気腫の人が使うみたいな酸素ボンベですがね。シャツの袖の中にホースを通してその先っぽに家畜用のスタンガンみたいなのが付いてましてね。ええ。とにかくそんな感じの道具です。ご覧になるとわかりますよ。はい。わかりました。はい。
 椅子から立ちあがり腰のベルトから鍵束をはずして机の引き出しを開け留置場の鍵を出そうとした。保安官補が軽く背をかがめているあいだにシュガーはゆっくりとしゃがみ手錠をかけられた両手を膝の後ろへおろしていく。それと一続きの動作で床に尻をつけて座り身体を後ろへ傾け両手を尻の下へ通し腕の輪から両足を抜いてすっくと立ち上がった。まるで何度も練習した動作のように見えたが実際そうだった。シュガーは手錠の鎖を保安官補の首にかけ跳びあがって両膝をうなじに打ち当てると同時に鎖を強く引いた。
 二人は床に倒れた。

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  これは映画『ノー・カントリー』の原作として知られる、アメリカ現代文学の巨匠、コーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』の冒頭の一節である。メキシコ国境近くに住むベトナム戦争帰還兵の男が、たまたま麻薬密売人の銃撃戦に出くわし、莫大な現金を手に入れる。それで男に金を奪われたことを知った麻薬カルテルは、シュガーという殺し屋を送り込むのだが、書き写したのはそのシュガーの登場シーンだ。一読しておわかりのように、マッカーシーの文章(翻訳)には読点も会話のカギカッコもない。登場人物の内面の吐露も極端に少ないのだが、その描写の正確さとリアリティに読者は映像を見ている感覚で小説世界に引きずり込まれる。この描写を初めて読んだときには「なんてかっこいい文章なんだ」と感動したものだ。
 続いて、やはりマッカーシーの小説『ザ・ロード』の、一番最後の文章を紹介したい。

 かつて山の渓流には川鱒が棲んでいた。琥珀色の流れの中で緑の白いひれを柔らかく波打たたせている姿を見ることができた。手でつかむと苔の匂いがした。艶やかで筋肉質でぴちぴち身をひねった。背中には複雑な模様があったがそれは生成しつつある世界の地図だった。地図であり迷路であった。二度ともとには戻せないものの。ふたたび同じようには作れないものの。川鱒が棲んでいた深い谷間ではすべてのものが人間よりも古い存在でありそれらは神秘の歌を静かに口ずさんでいたのだった。

『ザ・ロード』は核戦争後(おそらく)と思われるアメリカの荒涼とした大地を、海を目指して父と幼い子が二人、ひたすら歩き続けるという物語だ。食料となる植物や動物もほとんど死に絶え、生きるために人間を襲って食べる集団も存在する。救いようのない灰色の死の世界の描写が延々と続くからこそ、紹介した文章のような色鮮やかで生命力に満ちた宝石のごときイメージが、読者の脳に深く刻み込まれる。

 最後にちょっと艶っぽい文章を紹介したい。ライターの私は依頼があれば未知の分野でも引き受けることにしているが(勉強になるから)、いくつか書けない分野も当然あって、その一つが「恋愛や性にまつわる話」である。人間にとって、色恋や性というのは根源的な営みであることは間違いない。そういう話を読むのは嫌いじゃないし、面白く魅力的に書ける才能を持つ人は男女問わず尊敬しているのだが、どうもこっ恥ずかしくて書けない。
 しかし藤沢周平の小説を読むと、含羞を携えながら奥深くそれらを描くことはできるのだ、と教えられる。以下、映画「たそがれ清兵衛」の原作の一つでもある「竹光始末」から抜き出した。妻子を連れて国を出た浪人、丹十郎はかつての戦場で知り合った友人の伝手を辿って仕官先を尋ねるが、相手にされず追い返される。仕方なしに旅籠に無理を言って泊めてもらうが、金が無いため妻は宿で下働きをすることになり、丹十郎は愛刀を売って腰には竹光を差している。そんな状況の一シーンである。

 夫婦はしばらくの間胡桃を割って食べるのに熱中した。食べ終って多美が殻を片づけると、することもなくなって丹十郎はまた寝ころび、やがて多美が行燈の灯を消した。すると、開け放した窓から、ひややかな夜気と一緒に、水色の月の光が部屋の中に流れ込んできた。
 寝ころんだ丹十郎のそばに、多美もそっと横になった。
「いい月ですこと」
「うむ」
「二年前でしたか。宇都宮でこのような月を見ましたなあ」
「うむ」
「いけませぬ」
 ぴしりと多美の掌が鳴った。
「さ、お布団を敷いて休みませぬと」
「…………」
「お前さま」
「…………」
「またややが出来ても存じませんよ」
 不意に多美の声がやみ、かわりにひそめた喘ぎが青白い光をかき乱した。窓の下の庭で、ほそぼそとこおろぎが啼いている。
 やがて動きが止んだが、丹十郎は蝉のように多美の白い胸の上にとまったままでいた。いつの間にか丹十郎は寝息を立てている。その頭を、多美はそっと抱いた。
「お前さまも、苦労なされますなあ」

私にとっての「エモい文章」を書く二大巨頭がマッカーシーと藤沢周平なのだが、二人の文章に共通するのは「描写に語らせる」ということだ。先日のライター談義では、「エモい文章をどう書くか」という疑問に私は「書かないことだと思う」と答えた。昨今流行りの文章は、私にとっては「書き過ぎている」と感じることが少なくない。これも説明しだすと長くなるので割愛するが、知りたい方はぜひ、藤沢周平の「山桜」という短編小説を読んでみてほしい。きっとエモさの真髄を感じていただけるだろう。


 

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