桜庭一樹『私の男』の気持ち悪さについて
※ネタバレを含みます
「 私の男はぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。」
謎めいた一文から始まる『私の男』。
なぜ養父が私の男なのか、この二人の過去は何なのか。
ミステリアスな展開、物語に引き込まれてグイグイと読み進めました。
が、最後まで読んだ感想としては、
「気持ち悪い...」
でした。
直木賞受賞もされた『私の男』。
近親相姦ネタでも私はフツーに読めるのですが、気持ち悪さが拭いきれませんでした。
今回は気持ち悪いという感情=悪い感情ということから離れて、「なぜ『私の男』が気持ち悪いという感情を強く喚起するのか?」考えてみたいと思います。
まず、父娘の近親相姦だから気持ち悪いということが挙げられます。
道徳的に不快な、禁断の愛。
でももっと言えばその気持ち悪さは、近親相姦をさも美しい物語として語られるという違和感にあるように思えます。
ストーリーを振り返ってみると、
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二人は父娘という関係にありながら肉体関係を持ち、共依存していきます。
そして淳悟は父親でありながら花を性的対象として扱い、恋人のような声をかける。一方、「お母さん」と花を重ねる。
二人の関係を理解する人はいない。
むしろ歯止めとなる人が出るのだが、その人も排除されていく。
その悪も隠蔽される。
まるで”この気持ちは純粋だから、悪ではない”というかのように。
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このように、近親相姦をさも美しい少女漫画のように肯定されること。
なまなましい描写。
ここに気持ち悪さを感じるのではないでしょうか。
それは近親相姦への吐き気というよりも、盲目的恋愛に対する執拗な自己肯定への吐き気といってもいいかもしれません。
でもそもそも、この小説は吐き気を催させることが狙いだったのかもしれませんね。
そういう意味では大成功です。
面白い作品でした。
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