見出し画像

東大卒業して知らない土地でカフェを開いた話

東大卒たるもの、社会に貢献しなければダメだ。
僕らは恵まれている。家庭が、学校が、先生が、友達が、目に入る情報が、恵まれている。その全てではなくても、そのいずれかは間違いなく恵まれている。

7,8年前、僕は就活をしていた。他の多くの大学生と同じように。
恥ずかしながら何か決まった学を志していたわけじゃない。大学に出て就職をする、そんな社会の波に漂っていただけだ。
就活をしていく中で、日本が誇る大企業の方々ともお会いした。
僕は無礼な質問を投げかけていった。
「この仕事は社会にどう貢献しているのか」
「御社がなくなったら、誰が困るのか」

「思想文化学科倫理学専修課程」とエントリーシートに書かれた文字もあいまって、さぞかし「実用性のない、頭でっかちな、面倒な学生が来た」と思ったことだろう。嘲るような、やれやれというような、そんな彼らの顔を今でも覚えている。

しかし、真摯に答えてくれる人はほとんどいなかった。もしかしたら、それが面接中の質問だったから、かもしれない。返ってきた言葉はどこか浅薄で、借りてきた言葉のようだった。

そんなことが何度かあって、僕は就活をやめた。第一志望だった某外資系コンサル企業に落ちたことも原因だ。しかしそれ以上に大きな要因だったのは、「自分の仕事の意味をわからずに働きたくない」ということだった。

怖かった。彼らのように、仕事の意味を自信をもって答えられないことが。そして、そのように染まっていってしまう未来が。

世の中には、「人から言われたことをやっていればそれで良い」という奴隷根性を持つ人間が、想像以上に、本当に想像以上に、多い。自分の中からも、時たま奴隷根性が顔を出す。

だが、東大生たるもの、国公立大学の予算の多くを配分され、最高学府の名のもとに優秀な学友が集い、社会を発展させていくことを期待される東大生たるもの、奴隷根性はいかんと思った。僕らは、意味も分からずに社会を動かす仕事をするのではなく、確信をもって社会を発展させる仕事をすることを期待される。当然、それが与えられた仕事であっても、だ。

なにもnoblesse obligeなどと高尚な話じゃない。エリート意識に酔いしれるほど、自分に余裕などない。「東大生たるもの」というのは呪いだ。法を犯すことに倫理観が疼くように、奴隷根性のもと生きることに自意識が痛むのだ。

それだけの話だ。くだらない。勝手に「東大生たるもの」という意識を創り、勝手に「東大生たるもの」という意識に絡まっているだけのことだ。しかし、そのくだらない自意識によって、僕は就活をやめた。

そして、カフェを開いた。

知らない土地へ。

画像1

2014年4月。僕は山形にいた。縁もゆかりもない土地。
本当は知っていた。大学1年の時に免許合宿で来たことがあった。来るまでは思い出せなかったし、免許合宿の時にいたのは旅館と自動車学校から数百メートルの範囲。知らないと言っても良いだろ。

4月2日。吹雪いていた。商店街を何も持たずに、いかにも土地慣れしない様子で歩いていた僕は、地元の酒屋の母ちゃんから声をかけられた。温まっていけと、お茶を出してくれた。

なぜ山形にいたのか。人から誘われたからだ。まちおこしを手伝ってくれないかと。自分で仕事をつくっていきたいとアプリ開発をしていた僕は、その話に乗った。最初は2週間程度で帰るつもりだった。来てみると、本当に良い場所だった。それ以来、6年以上山形に住んでいる。

誘われたのは、雪の中誘ってくれた酒屋さんのある商店街のまちおこしだ。

僕が山形に来た時、北・西に広がる商店街の要に位置していたガソリンスタンドがなくなり、空き地になっていた。その酒屋の母ちゃんが、「ここにカフェでもできたらね」と言ったのをきっかけに、地元の人たちで集まって話し合いをしていたらしい。

少し紹介しておこう。この商店街があるまち、宮内という。その名が指し示す通り、熊野大社という大きな神社を中心に栄えたまちだ。昔は製糸業も盛んだった。娘二人いれば家が建つと言われるほどで、一昔前には地区内に映画館が三つもあったというのは、まちの人の語り草になっている。

画像2

しかし、地方の多分に漏れず、人口は減り、店はなくなる一方。ある商店街の人に言わせると「このまちはもう終わるだけだから…」。

ただただ、もったいないと思った。何しろ住みやすい。自然と文明が調和している。生活の不便さは全くない(雪は筋トレマシーンだから良いのだ)。都会の文化を知りたければ2時間半で東京にも出られる。ところがなんと、このまちは人が少ないのだ。歩いていても人とぶつからない。ソーシャルディスタンスは常時オープンだ。しかも少し行くと山がある。川がある。自然がそこにある。あとなんてったって食べ物がおいしいんだ。いま執筆片手に食べているデラウェアだっておいしいし、こっちに来た時に食べた、塩を振って焼いただけのアスパラガスはこの世の食べ物かと思ったぐらいだ。なぜか魚もおいしい。東京なら行列になるだろう店でも、いつでもすぐに入れる。

だから、力になりたいと思った。就職で見いだせなかった仕事の意味、社会への貢献が、見つかった。「東大生たるもの」という呪いも、僕を許してくれた。大企業や官僚でないとできないこともあるし、僕が意味を見いだせなかっただけですごい仕事だと思う。けれど、一人くらい地方と呼ばれるところに行って四苦八苦するやつがいてもいい。

まちのために何ができるのか

果たして、カフェを作ることがまちのためになるのか。僕にはそうは思えなかった。カフェが一軒できたところで、何が変わるのか。

それに、カフェがほしいというところから始まった議論も平行線だった。老若、商店街に関わっているか否か、様々な立場からの主張があった。そしてなんといっても、各々の仕事があり、カフェをやる人がいなかった。そこに来たのが、定職に就かずふらふらしていた僕だった。

このまちに何が必要なのか話し合うところから始めた。いろんな意見が出た。でも、共通していたのは、このまちに新たな取り組みが生まれるという風が必要であること、そして神社に来ている観光客を商店街まで引き込むということだった。

みんなが夢を持てる絵図を描こう。神社から商店街を通り駅に至るおよそ1000m。通りごとに特色を出していけば良いのではと、大学時代に受けたブランドデザインの授業を思い出しながら、まとめた。

画像3

画像4

そして、まちづくりを進めていく戦略を立てた。

その第一歩目が、「若者が集う場所をつくり、成功事例をつくること」。

カフェだった。

神社カフェをつくろう

若者が集まる場所をつくれば、新しい店を作っても何とかなるんだっていう成功事例を見せれば、まちは次へと進めていける。そのためには、維持をするための売上を生むことができ、なおかつ集まりたいと思うようなシャレた場所を作る必要があった。カフェだ。

初めはいくつかの候補地があり、何度も話し合いがされた。その中で最も良いとなったのが、神社境内にあった旧売店の建物。「いちょう売店」という名だったその場所は、そのころすでに営業をやめてから4,5年がたっていた。物置として使われていたが、そこは年間33万人が通る場所でもあった。

画像5

神社の若い神主さんも含めた若者メンバーで前向きに進めていこうとしていた気勢もあり、そこを改修していくこととなった。

神社から少しずつまちに人の往来を広げていく。神社を起点とするというのは理にかなっていたし、なにせ年間33万人が来る場所だ。経営の心配だって薄れる。しかも、観光客が訪れるということは、地元の対外的なPRに使いやすいということだ。それ以上の条件はなかった。

カフェつくるにはどうすりゃええのん

決まってからは早かったなぁ。メンバーに家具デザイナーさん、デザイナーさん、大工さん、花屋さんをはじめ、いろんな業種の人がいたから、空間のデザインは家具デザイナーさん、改装工事は大工さん、と、それぞれお願いできた。

僕はいろいろ準備しながら、毎朝6時にカフェの場所に行って、神社に参拝に来る方にコーヒーをふるまってお話ししたりしていました。その時であった方には今でもお世話になっています。

カフェ自体は未経験でしたが、いろいろなカフェに勉強しに行きました。特にお世話になったのが東京の喫茶「ワンモア」さん。ずっと連絡できていないですが、コロナがおさまったらお礼を言いに行きたいな。電話して、東京に行ってきたんですが、そんな若者に丁寧にカフェのいろんなことを、本当に快く教えてくれました。

肝心なお金は、というと、かかったお金は最終的には5、600万くらい。もともと2、300万円でなんとかしようって話していて、メンバーで出し合ったり、僕が個人的に借金したりっていうのでなんとかしようとしてたんだけど。お金をかけないように、解体とかはできる範囲で自分たちでやったし、床や壁の塗装も自分たちでやった。

でも途中である事実が発覚したんだ。

売店にね。水道があったんですよ。水も出ているし、水も排水されている。水が通っていると思うじゃないですか。でも、ちゃんと水引かれてなかったんですねぇ。上水はちょっとわからないけど、下水はあれですよ。売店のある脇道に垂れ流しになってたんですよ。怖いですねぇ。

もっと怖かったのがね、「いちょう売店」ていうくらいだからね、売店の隣にいちょうの木が生えているんですよ。でもね、それがね、県の文化財の大銀杏なんですね。水道工事しようにも、まちがって根っこ傷つけてまちのシンボル的ないちょうの木を枯らそうもんなら、なにがまちおこしだってね。

だから樹木医の先生にも来ていただいたりして、ちゃんと調べたうえで根をぐるっと迂回する形で水道工事もしてもらいました。でもそんなこんなしてたらお金かかりましたね。思ったよりも。

そこで効いてきたのが、もともと資金集め目的でやっていなかった、ある策でした。

ローカルファンディングのススメ

まちの人が集まってカフェを作っているとはいっても、まち全体から見ればごく少数です。まちづくりの嚆矢とするからには、もっと多くのまちの人たちに絡んでもらわないといけませんでした。

そのためにとった策が「ローカルファンディング」。別名「オーナー制度」というもの。

簡単に言えばクラウドファンディングのローカル版。古き良き協賛制度。例えば1万円出していただけたら「オーナー」となり、1年間コーヒーを飲み放題にするという、リターンを設けて出資していただくという仕組みです。

単純に「応援して」「協力して」ではあまり響かなくとも、お金を出していただけば、カフェのことを気にかけてくれ、口を出してくれるのではというねらいからおこなっていた施策でした。

結果、60人以上から250万ほど集めることができましたし、そのオーナー様と一緒にコラボ企画をしていくという当初の目的も達成することができました。最近連絡が取れていないけれど、本当にあのとき助けていただいた皆様には感謝しています。最近、あのラーメン屋さんにも顔を出せていない。

ただ、失敗だったなと思うところもありました。

もともとアメリカの飲み屋でやっていた「1000ドル出せば一生ビール飲み放題」に着想を得て行った施策だったんですが、「カフェでコーヒー飲み放題」はうまくなかった。

飲み屋はいいんです。ビール以外のものたくさん頼むから。でも、カフェってコーヒーだけの方も多いんです。そして、応援してくださる方ってみんな良い人たちばかりなので、「タダでコーヒー飲みに行くなんてできないよ」って。たくさん来てくれるだけでよかったんですけど、たしかに、前にお金を払っているとはいえ、会計をせずに店を出ていくのって抵抗ありますよね。せめてコーヒー半額とかにするべきでした。


書いていたら、涙が。本当に、いろんな方にお世話になっている。感謝も伝えきれず、いったい僕が何をできているのか…


そして開店へ

画像6

2015年2月、開店。今思えば情けないくらいのクオリティだった。お客様をお待たせし、フレンチトーストを焦がしてしまうこともしばしば。でも、地元の人が来てくれて、応援してくれて、たまにお正月やお盆に、帰省してきた人が来てくれる。

いろんな人といろんな話をした。

東京に出たけどこっちに戻ってきたいという人。

わざわざ新潟から通ってくれるという人。

転勤でこちらに来て一人だからカフェを探していたという人。

まちのために何かできないかという人。

カフェで人と話をし、イベントを開き、常にそこにある。参拝に来る方、通ってくれる方、そういう人たちがいてくれるだけで、この仕事に確かな意味があると実感できる。

まちが変わったかといえば、変わっていないかもしれない。でも、カフェを皮切りに、このまちに店が少しずつまた生まれていったこともまた事実。ある方は、icho cafeができたから自分も店を出す気になったと言ってくださっいました。小さなカフェだけでは何も変えられないかもしれないが、変えられていることもあるかもしれない。

あの時見た夢は、まだまだまだまだ道半ばだし、最近カフェにも実は行けていない。ここ最近、全国放送で別の事業が取り上げられたことで、カフェに関わってくださっていた方から連絡をもらうようになったから、改めてカフェのことについて振り返ってみました。

自分、何か月か時間とって、いろんな人に感謝と謝罪にまわるべきだなぁ。

でも、今は、すくなくとも、楽しいです。
自分の仕事に自信をもって、取り組めている。
社会の発展にどれほど貢献できているかというと心もとないけれど、あの頃の僕には許してもらえるんじゃないかな。


初投稿…ども

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?