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言葉は、受け取った時初めて形が見えるような気がするのだ

 人とコミュニケーションをとっていると、
慰めるつもりが怒らせてしまったり、
励ますつもりが失望させてしまったり、
楽しく話しかけたつもりが怖がらせてしまったり、
他意はないのに、結構失敗する。そういうことがある度に、言葉の受け取り方って限りなくパーソナルなもので、むしろそれほどにひとの人生が表れるものはないんじゃないかなと思うのだ。

 自分の放った言葉が、自分の思った通りに受け取ってもらえないと、悲しくて、言葉を交わすことさえ億劫になってしまったりする。でもそれはある意味当たり前のことで、コミュニケーションとしては健康的なもの。みんな違う人生を送ってきているんだから、どんな言葉に触れて、どんな言葉に傷つけられ、どんな言葉に元気をもらったかも違うよね〜と思う。

 自分がなんとなく知っているだけだった言葉は、受け取った時にはじめてその本当の形が見える気がする。だから、自分が受け取った時のその言葉の形しか、信じられるものはない。それは色の見え方とすごく似ていて、赤色という単語はみんなが知っているのに、きっと思い浮かべる赤色は違うし、見えている色もたぶん微妙に違う。でも、私は私が見た赤色を信じるしかないし、ひとの眼とじぶんの眼は交換できないから、あなたが見ている赤色がどんな色なのか、一生知ることはない。
 同じように、私の人生とあなたの人生は違うから、渡した言葉にあなたがどんな印象を持つのかは、本当の意味では理解しきれないと思う。

 元気をあげるつもりで発した言葉が思った通りに届かないこともあるし、結果的に双方が傷ついたりもする。でも、例え傷つくとわかっていても、言葉にすることを諦めたくないと思うのだ。あなたのことはわからないけど、わからなさとか、わかりあえなさを知った上で、正直にぶつかりたい。


といいつつ、正直でいることは人を傷つけていい理由にはならないね、と昨今のSNSを見てて思ったりもするんだ。言わなくってもいいことってあるよ。黙ってていいときもあるよ。ぶつかることを避けてもいいときだって、あるよ。

そういうことを考えた日でした。

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