ドラえもん。
幼い頃に体調を崩すと、午前中にドラえもんの映画をよく見ていたのを思い出す。体温のせいで汗ばみながら薄い毛布に包まっていた私を背に、母は家事を静かにこなしている。こんな時ばかり母の偉大さを知るけれど「いつもありがとう」なんて照れ臭くて言えなかった。
懐かしい記憶をいつでも鮮明に蘇らせてくれるアニメは他にもあるけれど、ドラえもんは外せない。何度も泣かせてもらったし笑わせてもらった。もはや友達くらいの気持ちでいるのは私だけではないのではないか。ドラえもんとのび太、そして自分もそこにいつも一緒に居たような、子供だけが見れる世界を見守っていてくれる妖精ような、そんな不思議な安心がある。
こんな走馬灯のようなことが書きたくてドラえもんを題材にしたわけでない。
入浴中に星野源の曲を熱唱していた夜、意図せず「ドラえもん」という曲が流れた。Apple Music様様ですほんと。歌詞を見ながら聴いていた今日、改めて星野源を尊敬する言葉に出会った。
なんて優しい視点だろう。何者にだって愛するものがあり、愛着という概念は平等にあると唄っているように思えた。
さらには、何か嫌なことがあった時にも思い出したいお言葉。正義という想いは一概に誰にとってもの善ではないと、一歩引いて深呼吸できるきっかけになる。冷静に考えればわかることでも、いつでも過去の感覚を持てるほど人間は完璧ではない。
たとえ製作者が歌詞に宿した意味と、私が感じた意味が違っていたとしても、私だから得られた自分の感受性を疑いたくない。
そういえば今日、喫茶店へ行った帰り道に黄色い新幹線を見た。今日ドラえもんを私に聴かせるためにのび太が「ドラえもーん!」と叫んでたのかもしれない。それかドラえもんの鈴か。出会った色ひとつで「必然」と称して繋いでみると、何でもない一日に「運命」とまで名付けてしまえる。
ドラえもんとのび太はひみつ道具で非日常を味わえるけれど、たとえ四次元ポケットごとなくなってしまっても「必然」も「運命」も言わず、宝物と言って尊ぶ生き方をするような気がしますね。大人になった今でもドラえもんのアニメを見れば、短パンで公園を駆けたくなるような無邪気な熱さを滾らせてくれる。そんな無垢さだけでなく、凝り固まった偏見の解し方とか、真っ直ぐ信じることの暖かさとか、のび太を見習って生きることを忘れたくないですね。
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