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そういえば弟やった。

「自分、ゆうちゃんの弟やんな」
誰だったかな。顔は覚えてるけど誰かの親だったことは確かだけれど、まぁいいか。
「はい、そうです」
「昔よう家遊びに行っとったな」
「はい、覚えてますよ」
他のお客さんと変わらない接客スマイルで対応するしかない。正直まったく覚えていない。

知り合いと出会したときの気まずさが好きじゃない。誰か覚えてないからじゃない。向こうが昔の自分を知っているから嫌なのだ。うちの家庭がどうなったかなんて知らないはずの人が「そういえばこの子の実家どうしたんだろう」と思うに違いない。もうそこに無いのだから。

「がんばってね」
仕事に対してだろうか、それとももっと複雑なことに対してだろうか。こんな疑問を抱いてしまうのは捻くれているだろうか。
「ありがとうございます」
数秒後には消える笑顔は疲れる。どうせ向こうもすぐに忘れると思えば、他のお客さんに向ける笑顔となんら変わらない。

綺麗なスーツを着た息子さんが父親に煙草を買ってあげる。娘さんは近所の人に向けるような社交辞令の目で一礼する。二人を見ても尚、誰だかわからない。でも父親の顔だけは覚えている。息子さんか娘さんのどちらかは私の顔を知っているのだろうか。

ああ、そうか、姉の同級生の親か。書いている今ふと思い出した。
「ゆうちゃん」と呼んだその人は今私の姉が実名を変えたことを知っているのかしら。もう兄ではなくなったことも。きっとその人は私にはまだ兄がいると思ってるんだろうな。性転換したなんて想像もしないだろう。
弟の私ですらゆうちゃんなんて久しぶりに聞いた。一瞬誰のことかわからなかった。もっと言えば「そういえば私って弟だったな」って忘れていたくらい姉と会っていない。


あの家族は綺麗に生きてるんやろな。いや、違うな。明日食べれるかどうかを考えた瞬間はないんやろな。他人の人生は知り得ないからわからないけれど、あんな顔向けられたらそう思えてしまう。

ご近所付き合いなんて私には向かないと改めて思う。愛嬌振り撒くだけなら得意ではあるけれど、どこかで顔を合わせるとテンプレみたいな会話を始めるのが義務のような光景でなんだか苦手だ。

子供の頃、親同士の距離が近すぎる近所付き合いなら尚更接し方がわからなかった。「この子は案外人見知りで」の一言で私は人見知りの子供の称号を得てしまうから、それっぽく接しなくてはとめんどくさかった。他人が自分の見方を変える瞬間を見るのが嫌いでしかたなかった。だから相手が持つ印象のままの自分でいる必要がある。だからか、気づけば多面性のある人という称号を得ていた。

「人見知りの子供」から「多面性のある人」か。私は何も変わっていないのに。「ゆうちゃん」の弟であるかももはや怪しい。

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