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ロック的な所有(正義)とヒューム的な所有(正義)をつまみ食い

最近やった読書会で何回か出てきたので、今日はロックの所有論(正義論)とヒュームの所有論(正義論)をつまみ食い的に整理しようと思う。

この違いを押さえておくと後で何かに役に立つかも知れないと思ったので、思考の庭を整理してみる。

なお、内容の正確性はシロウトなのでご容赦ください。


今回の参考文献

(以下、森村本)

(以下、鷲田本)

ロックの所有論(正義論)


ジョン・ロック

イギリス経験論の父といわれ、自由主義の父とも呼ばれているようである。
『統治二論』が有名。

ロックの所有論

鷲田本によれば、ロックが『統治二論』で提示した統治論は長らく、個人主義と自由主義、立憲主義や「基本的人権」といった近代政治思想の水源であった、個人の生命と安全と自由とを社会の圧政から保護することの正当性を巡る思想の原点といって、おそらく異論はないとのこと。
加えて、『統治二論』は資本主義的な市場経済を基礎づける議論の嚆矢となったともされている。

近代政治思想の原点過ぎる原点なので、最近は、新自由主義推進側にも資本主義批判側にも、いいように引用されてしまっているようでもある。

その所有論

① 人は生まれながらにして、自身の身柄(パーソン)のうちに、自分だけの、つまりは他者を排除できる所有権(プロパティ)を有している(神から与えられている)。
② その身柄の元に成される「労働」による所産であるものにも所有権が拡張される。
③ 自分に属する者以上のものは自分以外の他者のものであり、他者のプロパティを侵害してはならない
④ 朽ちさせたり、腐敗させてはいけない(神から与えられたものだから最大限の便益を引き出しなさい)

 その思考のモチーフは以下のとおり

 1 一番重要なのは、まず自己の存在を維持すること。つまり、自分の生命を保全する権利は、神から与えられた固有の権利としてもつ。
 2 自分以外の所有権の根拠は自ら投下した労働にある。労働は、労働したその人自身のものである。
 3 排他的な所有権は他人の所有権と衝突する。それを調停する仕組みが必要。

 これは<労働所有論>として整理される。
 所有する主体としての個人と所有される客体としての事物を想定する。

ロックの正義論 正義とは自然権の保護・実現である

 森村本は、彼の正義論上の功績は、誰もが、生命・自由・財産に対する基本的な道徳的権利を有していて、労働が新たに価値を生み出すという洞察を明らかにした点にあるという。

 統治二論の目的は当時の名誉革命(1688-89)の正当化に合ったとされるが、実際にはイギリスよりもアメリカ独立宣言への影響が大きかったようである。
 独立宣言の生命・自由・幸福追求の権利を不可侵の個人権とする思想は、日本国憲法にも引き継がれており、現代日本への影響も大きい。

 正義論の視点から見た場合、個人主義的・自由主義的な古典的自然権論の典型を提示したというのが森村本の整理である。

ヒュームの所有論(正義論)

デイヴィッド・ヒューム

ヒュームの所有論

 まず、ロックの労働所有論に対するヒュームの批判を引用する。

 ある哲学者たちは次のように言うことで専有(occupation)の権利を説明する。各人は、自分自身の労働に所有権を持つ。そこで、各人がその労働を何らかの物に加えるとき、それによってその物全体に対する所有権が得られる。
 しかし、一、われわれが獲得する対象に労働を加えているとは言えないような種類の専有がいくつかある。たとえば、牧草地で自分の牛に草を食べさせることによって牧草地を専有するときである。
 二、この例は、増加〔もともと所有していた牛と牧草地が結びついて、牧草地が自分の所有になること〕による説明を引き入れるが、これは不必要な回り道である。
 三、われわれが物に労働を加えると言えるのは、比喩的な意味で(in a figurative sense)だけである。厳密に言えば、われわれは労働によって物に変化を加えるだけである。これがわれわれと対象の間に関係を形成し、そのことによって、先に述べた諸原理により、所有が生ずるのである。

鷲田清一. 所有論 . 講談社. Kindle 版.

 要は、労働でできたものは手を加えただけのものもあるのだから、いきなり全部が所有物になるのはおかしいという批判。
 所有はもっと違うプロセスで、形成されるはずだ。

 ヒュームの所有論は、合意所有論といわれている。

① 財の保有が確定していることが社会に安全と平和をもたらす
② 持っているだけでは、互恵的な取引による利益の拡大ができないので、それを可能にするために所有権の移転が必要である。
③ さらに将来の行為の履行を約束づける制度が必要である。

 ヒュームは、所有物とは、その恒常的な保存が社会の法によって、つまり、正義の法によって確立された財という。
 そして、所有権が成立するには、対立する情念が合意することが必要という。天から所有権が自然に降ってくることはない。

 では、所有が確立するための合意とは何か。
 ヒュームは、合意が成立するためには「相手に自分の財の占有を任せておくのが、共通の利益になり、自分の利益になるということに全員が気づく」必要があるという。
 この人為的工夫を「コンベンション」という。

 コンベンションとは?
 これは、「意図的な規約ではなく、長い間の慣行によって合意形成されて作られた慣習」とされている。黙約とか黙契と訳されている。
 明示的な約束ではなく暗黙の相互了解である。

 労働所有論と合意所有論の対比は、中身と言うよりは、よるべき視点で見たほうがよい。
 つまり、所有をあくまでも法的権利の次元で見るか、それとも社会学的にいわば自生的に生成してきた可変的・動態的な秩序としてとらえるか、というように捉えた方が違いが生じる視座がえやすい。

 なお、実は鷲田所有論は、この後の展開がやばい(語彙力、、、まだ読み途中)。


ヒュームの正義論 正義とは慣習によって生じた財産権規則を守ることである

 森村本では、鷲田本と同じような部分が引用がされている。これはヒュームの正義論がイコール財産権の保護の領域にとどまるからである。

 森村本は、コンベンションの生成過程に彼の功績を見る。
 つまり、<黙契>、暗黙の合意の生成過程を整理したことに彼の功績を見る。

 ヒュームは、正義の発生に不可欠な状況として、以下の4つをあげている。

⑴ 人間の利己性
 人は、誰でも他人より、自分のことを大事に思っている
⑵ 事物の希少さ
 人間にとって価値のあるものは限られているから、その保有について争いが生じる
⑶ 事物の保有の不安定性
物理的な物は奪うことができるので、争いが起きる原因になる。
⑷ 個人間の大まかな平等性
 どちらかが一方的な支配者だと能力差が大きすぎるが、ある程度の平等性があれば、相互の自制と尊重が必要になる。

 つまり、<人々の利己性や近視眼性や資源の希少性などの事情が存在するからこそ、社会の中で正義が必要とされる>という正義の必要な状況の生成過程をヒュームはきれいに整理した。
 <正義の状況>(正義が必要とされる状況)を整理したことにヒュームの功績があると森村本は言う。
 最初から固有の権利があると決めつけず、コンベンションを踏まえて、丹念に検討したからこそ見いだせた観念ともいえると思う。

この対比から見えること

 久しぶりにずいぶん長くなってしまったが、この対比から見えるのは、目的地は同じでも、普遍的なものから考えるか少しずつ積み重ねるものから考えるかの違いにあると思う。

ロックらの自然法的な論議が〈社会〉の成立を俟つことなく成立する各人の所有権を認め、そのうえでそれらの相互調停として社会的な〈契約〉を位置づけたのに対し、ヒュームがそれこそ「立法」以前に社会においてその内部から編まれゆく「黙契」にその基盤を見出した。


鷲田清一. 所有論  講談社. Kindle 版.

 社会が先か、権利(所有権)が先か。
 この視点の違いは結構、他の場面でも使えそうな気がする。

 どちらも必要な視点と思われ、それによって、いずれも現代に大きな影響を残しているのであるから、どちらも視点も大事なのだろう。

ざっくり表にしてみた


一つの絶対基準を想定し、そこから論理的に結論を導くか、あるいは具体的な状況から改善を重ね、理想に近づけていくべきか、どちらの視座ももって、物事を見つめられたらと思いました、今日はそんな感じです。

 ということで、「今日一日を最高の一日に

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