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つれづれなるままに


つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。

【訳文】  
今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。すると、しだいに現実感覚がなくなって、なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。

ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 徒然草 吉田兼好/角川書店=編

徒然草を読んでみた。

約700年前でも、文を書く感覚は現代のnoteを書いている人たちとそう変わらない。


この「つれづれ」という意味。実はいろいろな解釈があるらしい。

いっぽう、入門書ではあるが、角川書店編『徒然草』(角川ビギナーズ・クラシックス)には、序段が、

今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。

と訳されている。

 このような余裕綽々に筆を執る兼好像・『徒然草』観が、「つれづれ」の語義からいかにかけ離れているかは、もはや詳しく解説するまでもなかろう。

川平敏文. 徒然草 無常観を超えた魅力 (中公新書) . 中央公論新社. Kindle 版.


余裕綽々に筆をとるのは「つれづれ」の語義からは離れるらしい。

本書は、「つれづれ」の意味について、中古・中世から現代までひも解いている。時代ごとにいろいろな解釈があり、興味深い。

「つれづれ」の語義の解釈は、今だけではなく、中世・近世・現代と解釈そのものに歴史がある。

本書では、つれづれについて「退屈」「寂寥」「煩悶」といったワードが出る。
どれもニュアンスが違う。

退屈しのぎなのか、静寂の境地にいるのか、静なのか動なのか、「つれづれ」というワードだけで、これだけ解釈が広がっている。


小林秀雄によれば、「つれづれ」とは、「批評と観察の冒険」である。

「つれづれ」という言葉は、平安時代の詩人らが好んだ言葉の一つであったが、誰も兼好のように辛辣な意味をこの言葉に見付けだした者はなかった。彼以後もない。……徒然草の二百四十幾つの短文は、すべて彼の批評と観察との冒険である。それぞれが矛盾撞着しているというようなことは何事でもない。どの糸も作者の徒然なる心に集まってくる。

川平敏文. 徒然草 無常観を超えた魅力 (中公新書) . 中央公論新社. Kindle 版.


一方で、国文学者安良岡康作は、「つれづれ草における、作品としての統一は、そういう一語句によって代表させるには、あまりにも複雑である」(「徒然草」昭和三十六年〈一九六一〉)と批判する。

これを、清閑とか、閑寂とか、悠々自適とか、「まぎるるかたなく、ただひとりある」(第七五段)心境とか解して、何らかの価値ある生活感情を認めようとするのは考え過ぎであろう。することもないやりきれなさ・所在なさが、随筆の執筆を促す動機となったのである。

川平敏文. 徒然草 無常観を超えた魅力 (中公新書) . 中央公論新社. Kindle 版.


崇高なものなのか、そうではなく退屈しのぎなのか、どっちのニュアンスに取るのかで、徒然草の意味合いはだいぶ変わる。


これは、「つれづれ」自体がうつろいゆくものだからなのではないだろうか。
毎日書き散らしているとき、その人の心持ちは、毎日同じではないはずである。

崇高な気分のときもあれば、退屈しのぎの気分のときもある。冒険みたいな時もある。あるいは、冒頭のような余裕綽々の気分の時だってあるかもしれない。


これまで20日間noteを継続したが、私の気分は毎日違う(体調も違う、昨日は風邪のことを書いた)。


一貫していないことが一貫している、そういう風にとらえてみてもいいのかもしれない、違う日違う気分のときに読んでみるとまた本質が見えるのかも。


その日、その一日にベストなチョイスができるといいですね。


ということで、「今日一日を最高の一日に」

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