つれづれなるままに
徒然草を読んでみた。
約700年前でも、文を書く感覚は現代のnoteを書いている人たちとそう変わらない。
この「つれづれ」という意味。実はいろいろな解釈があるらしい。
余裕綽々に筆をとるのは「つれづれ」の語義からは離れるらしい。
本書は、「つれづれ」の意味について、中古・中世から現代までひも解いている。時代ごとにいろいろな解釈があり、興味深い。
「つれづれ」の語義の解釈は、今だけではなく、中世・近世・現代と解釈そのものに歴史がある。
本書では、つれづれについて「退屈」「寂寥」「煩悶」といったワードが出る。
どれもニュアンスが違う。
退屈しのぎなのか、静寂の境地にいるのか、静なのか動なのか、「つれづれ」というワードだけで、これだけ解釈が広がっている。
小林秀雄によれば、「つれづれ」とは、「批評と観察の冒険」である。
一方で、国文学者安良岡康作は、「つれづれ草における、作品としての統一は、そういう一語句によって代表させるには、あまりにも複雑である」(「徒然草」昭和三十六年〈一九六一〉)と批判する。
崇高なものなのか、そうではなく退屈しのぎなのか、どっちのニュアンスに取るのかで、徒然草の意味合いはだいぶ変わる。
これは、「つれづれ」自体がうつろいゆくものだからなのではないだろうか。
毎日書き散らしているとき、その人の心持ちは、毎日同じではないはずである。
崇高な気分のときもあれば、退屈しのぎの気分のときもある。冒険みたいな時もある。あるいは、冒頭のような余裕綽々の気分の時だってあるかもしれない。
これまで20日間noteを継続したが、私の気分は毎日違う(体調も違う、昨日は風邪のことを書いた)。
一貫していないことが一貫している、そういう風にとらえてみてもいいのかもしれない、違う日違う気分のときに読んでみるとまた本質が見えるのかも。
その日、その一日にベストなチョイスができるといいですね。
ということで、「今日一日を最高の一日に」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?