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【noteの書き方2.0?②】「文章を書く」とは、〇〇と〇〇と〇〇を使ったフレームのないフレームワーク

火曜日なのに思いのほか長くなってしまった前回のつづき

前回

「意味があると思っている内側」

「意味がないと思っている外側」

という「フレームがないフレームワーク」で、【noteの書き方2.0】が語れるなどとのたまってしまいました。

前回のぼやかし図

そして、およそ文章は以下の6パターンに分類できるなどとのたまいました。

① 「意味がないと思っている外側」が、実は「意味があると思っている内側」だった
② 「意味があると思っている内側」が、実は「意味がないと思っている外側」だった
③ 「内側」と「外側」の境界線をはっきりさせて「意味があると思っている内側」を際立たせる
④ 「内側」と「外側」の境界線をあいまいにさせて「意味があると思っている内側」を揺さぶらせる
⑤ 「意味があると思っている内側」を語る
⑥ 「意味がないと思っている外側」で遊ぶ

なんのはなしですか

今日は、⑤と⑥になります。

①~④は以下


⑤内側を語る、⑥外で遊ぶ


この⑤と⑥は、一見ひねりがないように見えます。

⑤内側を語るパターンです。
一番想定されるのは、ビジネス書などの実用書。あるいは、取扱説明書、行政文書。

⑤では意味があると思っている内側をしっかりと大事に説明する。

ここから何が言えるのか。

⑤内側を語るということは、普通は「外で遊んでいる場合ではない」ということ
内側にしっかりと集中する、そこに意味がある(と思っている)。当然ながら、この発想も大事である。


一方、⑥外で遊ぶ、とは?

意味がないと思っている外側での営みは、基本的には「語り」というよりは「遊び」である。

noteには、外で遊んでいる人たちが本当に多い笑

ただ、外で遊んでいると、急に思いがけず内側に入ってくる時がある(①外から中へ)。
あるいは、外だと思っていたら実は中だったということがある(④あいまいな境界線)。
(なお終始、⑥外で遊んでいることもある)。

つまり
⑤内側を語っている人は、基本外で遊んでいる場合ではなく、内側に集中する。
⑥外側で遊んでいる人は、実はたまに内側に入ってきたり、いつのまにか中にいたりする。

これが、⑤と⑥のひねりだと思う。

この性質を押さえておいたら、例えば、次のような考え方ができないだろうか。

例えば、真面目に内側を語っているときに、急に外側の話をすると、突然ふざけた印象を与えるかもしれない。
なので、そういうときは、あらかじめコーヒーブレイクですとか、閑話休題的な断りを入れた方が良いかもしれない。

一方で、外で遊んでいるときに、急に内側の話をする、実は内側だったみたいな話をすると意外性のある印象を与えるかもしれない。
なので、この意外性をどう伝えるか、ステルスでいくか、インパクトをつけるかとかそこでの遊び方をいろいろ考えられるかもしれない。

「フレームのない」フレームワークが文章を書くことなのかもしれない


もはや、noteの書き方の話になっているのかすら分かりませんが、個人的にはひととおり整理ができたので、自分的にはもういいかなとなりました笑。(なんのはなしですか)

最後に、もう一度「フレームがない」に着目して、オチに向かっていこうと思います。

「フレームがない」あいまいな世界は、「内」と「外」をあいまいにしています。

本のことでいえば、「書いているのか」「書いていないのか」あるいは「読んでいるのか」「読んでいないのか」というのは実はあいまいだといえるかもしれません。

本noteがコンセプト本にしている「読んでいない本について堂々と語る方法」は、「読んだ」と「読んでいない」の境界線が、実はすごくあいまいであることを教えてくれます。

(これまで何回もで恐縮ですが…)このあいまいさを許容する<ヴァーチャル図書館>で遊ぶというのが、本noteでやっていることだと思っています。



そんな中、ぶどうさんのnoteに書いてあった、ある直観にハッとしました(ぶどうさん、ありがとうございます!)。


今科学の本がこんなに中心になって売れてるのは、今まで経験上良いとされてきた人生訓みたいなのが、科学的にも証明されてきて、裏付けを得たみたいな感覚でおれは捉えてます。だから、人生訓とか経験とか信仰的なものからも色々吸収するのが良いんじゃないかなと思う。もちろんおれは科学一辺倒でいきますって人は止めないから。進んでくれ。多分どっちにしろ行き着く先は同じだと思ってる。

科学的思考と人文学的思考(ここでは便宜的にそういいます)に逡巡し、
つまり、「意味があると思っている内側」と「意味がないと思っている外側」が本当にそうなのか?ということに逡巡して、最後にこう直観しています。

多分どっちにしろ行き着く先は同じだと思ってる。


これはハッとしました。

そう、もし世界があいまいな<ヴァーチャル図書館>で、本当は内も外も無いような世界だったら、多分どっちにしろ行き着く先は同じかもしれないのです。

そうだとしたら、文章を書くことは、どっちにも進めるけど、実は行き着く先は同じ。

いわばあいまいな真っ白な世界に、「意味があると思える内側」と「意味がないと思える外側」と「境界線」をデザインする試み
なのかもしれません。

それならば、

境界線をどう引く?

どのくらいはっきりさせる?

内と外どっちに行く?

どう飛び越える?


そんな意識で、「意味があると思っている内側」と「意味がないと思っている外側」と「境界線」をフレームのないフレームワークに当てはめて、読んだり書いたりしてみたら、文章を書くことや読書やnoteをまた一つ違った視点で楽しめるかも、そんな感じです。

というわけで、「今日一日を最高の一日に


起床5:25

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