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天丼

天丼については思い入れがたくさんある。多分一回では書き切れないと思うので何度も書くと思う。まず僕が何故これ程までに天丼にこだわって突き詰めているのかを考えるところから始めたいと思う。

まず天丼でなければいけないのか。そんなことはない。天丼を食べるつもりで入った蕎麦屋でカツ丼を食べてしまうこともある。丼物をやめて温かい蕎麦を啜ることもある。僕はそんな人間だ。だけどいつも天丼のことは大事に考えている。タイミングがぴったり合えば天丼は最高だ。でも合わなかった時は何で天丼にしちゃったのだろうと後悔することもある。

天丼に興味を持った最初の頃(1990年代初頭)、天丼と謳われている商品の価格設定の幅広さに驚いた。立ち食い蕎麦やスーパーマーケットのミニ天丼であれば200円台や300円台。ワンコイン500円から1000円くらいまでがよくある庶民的な価格帯。1000円から2000円までだと少し高級な蕎麦屋のちょっと気取った天丼や高級天ぷら店のランチメニューとなる。2000円を越せばホテルの和食店ややはり高級天ぷら店の豪華な天丼。そこから一気に5000円オーバーもあり、10000円近い特殊天丼まで経験した。天丼の世界は奥深く、でもとりとめがない。

では値段が高ければ高いほどウマイのかと申せば、それはそうでもない。食べるその時の自分のコンディションと上手くマッチするかどうかと云うこともある。500円以下の天丼を心からウマイと思って満足したこともあれば、2000円オーバーの天丼を食べて、確かにそれは美味しかったのだけれど、心の奥底に響くような感動を覚えなかったことが何度もある。詰まるところ自分が天丼に何を求めているのか、それを深く考えることとなる。

一時期流行った「自分探し」と云う言葉が大キライで、「自分探しの旅をしています」なんて若者がテレビに出ているのを観ると、我が心中は一天俄にかき曇り雷鳴は轟くわ暴風は吹き荒れるわ横殴りの雨でずぶ濡れになるわの天変地異に見舞われるのですが、何のことはない、自分もその「自分探し」の一員であると認識した時は身体中の力が抜けてイカがすっぽ抜けた後の天ぷらの衣だけのような気持ちになりました。「自分探し」に深く謝ります。僕も「自分探し」の仲間に入れてください。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げ奉ります、ははーっ。

そしてそんな「自分探し」の天丼ですが、辿り着いた結論として、すみません、まだ辿り着いてなんていません、途中経過です。だから結論でもありません。現在の意見を総合すると、僕は天丼に居心地の良さを求めている。天丼の味の良さはモチロンのこと、天丼を出しているお店の時間と空間、そこに僕自身がぴったりとフィット出来るか、それを総合的に求めている。天丼を食べにその店に行くことの価値観。天丼も、そのお店も、丸ごと愛しちゃう。食べ終えて満足して平和な気持ちに包まれる。愛と平和。ラブ&ピース天丼。これからも地球の平和を守るため天丼を食べ続けます。なんのこっちゃ。

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子供の頃から実は食に多大な興味があったのですが、それが食べ歩きに繋がったのは「ベストオブ丼 どんぶり探偵団編 文春文庫ビジュアル版」と云う本に出逢えたことが大きい。丼物と云うフォーマットが自分の指向性とマッチしたのだと思う。ある楽曲があって、そのアルバムバージョンが定食で、シングルバージョンが丼物。シングルバージョンの容赦ないエディット感がたまらない。ギターソロ丸々カットとか、変なところで切って繋げて全く曲の印象を変えてしまうとか、乱暴だけれど愛のある(ないのもある)シングル盤の愛おしさたるや。ワタシは丼物にそれを感じて愛してしまったのだ。

この本を入手して、この本に載っているお店に行こうと考え、最初に訪れたのが浅草の『尾張屋』。僕の天丼の旅のスタート地点。いつまでも愛し続けたい味わい。ウマウマウー。昨年(2019年)取材で訪れて、自分の思いの丈をお店の方に伝えることが出来て、とても嬉しかった。御馳走様でした。またゆっくり伺います。

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天丼の話、続きます。まだまだ、続きます。

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