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【エッセイ①】私史上、最高の恩師

私の人生で、忘れられない先生と言えば、ひとりしかいない。

今回は、私の恩師について記そうと思う。

今から15年以上前、自宅から電車で1時間半離れた場所にある、私立高  校に私は通っていた。

中学校では、先輩からの呼び出しや嫌がらせは毎日のようにあって、登校することが苦痛だった。
一時期ではあるが、クラスの女子全員に無視され続けたこともあった。

なぜか目を付けられやすい、田舎の学校では目立ちすぎていた、自分がそんな存在だったのだろうと今は思う。

中学校での体験により、「地元」というものが大嫌いになった私は、誰一人として行ったことがない都会の高校に進学することを選んだ。

その結果、あれだけトラウマだった”先輩”という存在も、イジメの時だけなぜか団結する”女子”という存在も、克服することができた。

都会の私立高校ということもあり、東西南北色々な場所から通学してくる生徒がいて、育った環境も違えば価値観も違う、そんな生徒たちが集まっているのに、私にとっては「地元」という小さな枠組みで暮らすより、快適であった。

私の学校では2年生に進学する際、文系・理系・商業系のコースに分かれるという決まりがあった。
テストで数学と科学の点数が足を引っ張っていた私にとって、文系コース以外の選択肢はなかった。正直、ここの学校を選んだ理由でもある。

春、クラス替えが実施され、仲の良かった数人は理系コースへ進み、数人は同じ文系コースへ進んだ。文系コースでもクラスの数は4クラスあり、1年生の頃に仲の良かった子とは別のクラスになった。

クラス替えはこの1回のみ。

卒業まで同じクラス、同じ担任でやっていくということである。クラス替え当初は馴染めないかもしれない、と不安に思ったりもしたが、クラスみんないい子ばかりで、すぐ打ち解けることができた。

そしてこの時の担任、愛称「こむちゃん」
卒業までお世話になる恩師に、私は出会った。

担任として教壇に立つその女性は、長い髪にパーマをかけ、老眼鏡を首から下げていた。歳は60代だろうか。私の母より年上であった。
こむちゃんの担当教科は科学であり、なぜ文系クラスの担任をしているのか、はじめは不思議だった。
徐々に分かったことだが、私のクラスは問題児と呼ばれる生徒が多く在籍していたようで、その中には私自身も含まれていたのだ。

私が小学校6年生の頃、両親が離婚した。
母は結婚前まで保育士として働いていて、結婚と同時に専業主婦となった。
離婚を機に働きだすことになった母は、3つ上の姉と私2人の子供を養うため、できるだけ高収入を得られる研究職へ就いた。
保育士として働いていた母にとって、研究とは未知の世界でありかなりのストレスがあっただろう。

私が高校2年生の秋、母は卵巣癌になった。

しばらく調子が悪かったのを我慢し、病院へ行ったときにはすでにステージ4まで進行していた。
毎日学校帰りに病院へ行き、夜8時頃まで病室にいた。
容態がよくない時は早退もよくしていたし、朝起きるのが苦手な私はホームルーム中に登校することもよくあった。

そんな私を、こむちゃんは陰ながら心配してくれていたのだろう。
成績表に載っている「欠席・早退・遅刻」の欄を見て驚愕した。

なんと「0」と記されていたのである。
そんなはずはない。自分で数えても20回は遅刻早退しているはずだ。

そう。
こむちゃんは、「自分のクラスの生徒に対して極端に甘い」のだ。
優しいとはまた違って、「甘い」という言葉が一番しっくりする。

月1回実施される頭髪検査では、明らかに染めている生徒に対しても、
「この子はそんなことする子じゃありません!」と言い切る。
チェックして回る先生に、曇りなき眼で訴えるのだ。

年配のベテラン先生にそんなことを言われてしまえば、他の先生はもう何も言い返すことができなくなる。
そうして私のクラスは、理不尽なことから守られていた

しかし、すべての事を肯定してくれるわけではない。
悪いことには、母のように怒る。素行の悪い子には、口うるさく咎めていた。それでも、言われている生徒は満更でもない表情を浮かべるのだ。

私を含め片親の家庭が多く、親からの愛情が足りていない生徒が多かった。
こむちゃんの小言も、なぜか少し嬉しかった。

こむちゃんは、自身の評価を上げるために私たち生徒を利用しているのではなく、単純に私たちのような大人になりきれていない未熟な子供を愛し育ててくれていたのだと思う。先生というより、親戚のおばさんなのだ。

他のクラスではイジメもあったようだが、私のクラスは本当に平和だった。
それはこむちゃんが、全員に気を配り、平等に接していたからだと思う。
目立つ子もそうではない子も全員、苗字ではなく「下の名前」で呼ぶことで、私たちにそう感じさせていたのかもしれない。

一見、誰でもできそうなことでも、そう簡単なことではないと思う。
担任の先生といっても、担当教科はなく、朝と帰りのホームルームでしか会うことはない。その中で生徒と深く関わり合っていくのは、難しい。
こむちゃんは、丁度いい、絶妙な距離感で接してくれる。
生徒は意外と先生たちを、よく見ている。常にその言動がジャッジされているのだ。大変な職業だ。

そんなこむちゃんは、体力的・年齢的な問題で私たちのクラスをもって、担任を卒業することになっていた。
今までどれだけの生徒を救ってきたか、想像もできない。
恩師と呼べる先生に出会えることなんて、奇跡でしかない。
私は、運がよかった。彼女と出会えたことで、真っ当な人生を送ることができた。ありがとうと、もう一度伝えたい。

こむちゃんは、私にとって「第二の母」である。


卒業式の日、我慢できず髪を染めてくる私のような生徒を想定して、
ビニール袋いっぱいに”黒染めスプレー”を買い込み準備していた、
こむちゃんの姿は今でも忘れられない・・・。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は【#忘れられない先生】について書いてみました。
次回も私の人生での出来事【#エッセイ】をお届けしようと思いますので、お時間ご興味ありましたらよろしくお願いします。








#忘れられない先生 #エッセイ


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