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ロックダウンで引き裂かれた母子の話

新刊「免疫学者が語る パンデミックの「終わり」と、これからの世界」の最終章では、ロックダウンで引き裂かれてしまったパーマー母子の話について書いてあります。今回の記事では、余白が足りず、この本では書けなかったこのパーマー母子の話の背景について、少し書いておきたいと思います。

2020年の第一回ロックダウンで英国に住むヒュー・パーマーが91歳の母であるパディ・パーマーと会えなくなってしまいました。パディは介護施設で暮らしていたのですが、英国は2020年3月、新型コロナウイルスの過酷な流行なために厳しいロックダウンに突入。介護施設への施設外のひとの出入りが禁止されてしまいます。

それでも、ヒューはその介護施設に毎日通いました。しかし厳しい法律のため、施設に行っても、窓越しに母の顔を見られるだけでした。

しかし、ヒューの母パディはガラスの向こうで、日に日に弱っていきます。コロナのパンデミックの終わりがみえず、家族に会うことができない孤独のなかで苦しみ、やがてパディは持病のために必要だった治療を拒否するようになりました。

そしてパンデミックがはじまって5ヶ月後に、パディは亡くなってしまいます。

パディが残した手記を、ヒューは「ガラスを通して、ぼんやりと:パンデミックについて鑑みる」の中で公開します。これは長い記事なのですが、ここにパディの言葉を一部引用します。

この3週間のあいだ、雀が、彼らのお家がある、ここの生垣に来ては出ていく自由を楽しんでいるのを、私は見ていました 。私はあの桜の花びらが(私が最後にヒューをだきしめたときにちょうど花盛りだったわね)木から落ちて、風に乗ってどこにでも吹かれていくのを見ていました。そしてスイセンが、自然の摂理のとおり、咲いては萎れていくのを、見ていました。全ての自然がお互いに依存していて、四季に応じて生きていく様子を、私は見ていたわ。自由。でも、今は、聖パウロがいうように 「私はガラスを通して、ぼんやりと、見ているの(“I see through a glass, darkly”)」。何となれば、私はとても幸いなことに、ヒューが私の窓際にまで来てくれて、私は彼の笑みを見ることができて、彼が大丈夫だということがわかる。だけれども、私たちは触れることも、抱き合うことも、できない。ただお互い手をふって、キスを投げ合うだけ。("Through a glass, darkly: Reflections on a pandemic(ガラスを通して、ぼんやりと:パンデミックについて鑑みる)", ヒュー・パーマー&パディ・パーマー。Poetry for Now!, 2020)

このパディの手記のなかで、目を引くのは"I see through a glass, darkly"という表現です。パーマー母子の記事の題名「Through a glass, darkly(ガラスを通して、ぼんやりと)」にも使われているほど、強い言葉です。これは、聖パウロが、と言っていますから、聖書からの引用でしょう。

"See through a glass, darkly"という表現を検索してみると、1611年刊行の「ジェイムズ王訳」として知られる英訳聖書においてのみ見られるものであることがわかります(英訳の聖書にはいくつかの版があります)。パディは、この聖書の一節を思い起こしながら、上の手記を書いていたのですから、この"see through a glass, darkly"の続きにある聖書の文章を読めば、パディが考えていたことが窺えるはずです。

この一節を書き抜いてみます。

For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.(「コリント人への手紙13:12」より)

この英文を翻訳してみます。

今のところは、ガラスを通して、ぼんやりと見ている。しかし、その時が来れば、面と向かって会うことになる。今は部分的にしか知ることができない。でもその時が来れば、私が知られているのと同じように私も知ることとなる。

私はキリスト教徒ではないので、この聖書の文意を解釈するためには文献を丁寧によむ必要がありました。少々骨の折れる作業でしたが、パディの考えていてことを知りたく、時間を費やしてみました。

要点をまとめると、「今のところは(For now)」は、現世のことで、「ガラスを通してぼんやり見ている」対象は、神になります。そして「その時が来れば」(神に)面と向かって会えるようになり、神が自分を知るように自分は神を知ることができる、という意味です。

パディの中では、ガラス越しにだけ息子と会っている日々が、キリスト教徒として神の存在を直接は感じられない「現世」に対応していたようにみえます。そして、自分が息子のヒューと面と向かって会い、「触れること」「抱き合うこと」ができるようになるのは、現世が終わったときだけである、と感じていたであろうことが推測できます。

パーマーが残した英文を丁寧に読むにつれて、どれほどの孤独と絶望の中にいたかに想像を巡らすと胸が詰まります。しかしこれが実際に、ロックダウン当時の英国の雰囲気でした。日本ではロックダウンはなかったとはいえ、介護施設や病院で同じような風景があったことと想像します。

原文の記事には、パディ・パーマーの写真があります。英語を全て読まなくとも、日本から遠く離れたところに、実在して生活していた一人の女性が、パンデミックで激変した世界において、このように考えて感じていた様子を感じていただければと思います。


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