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漫画家"手塚治虫"の"世界で第一号ファン"は誰だったのか

言わずと知れた漫画家"手塚治虫"は、1950年より漫画雑誌に登場してから『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけました。

手塚治虫は、日本の漫画家、アニメーター、アニメ監督。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍した。 兵庫県宝塚市出身同市名誉市民。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士。血液型A型。 (ウィキペディア

才能は、どんなに優れていても、才能を才能として、誰かが見抜き、誰かが磨き、誰かが支えなければ、本人の努力だけでは素晴らしい作品も、世の中に知られたり、人の手に渡って読まれることはありません。

そう考えると、最初の「才能を才能として…」がなければ、私たちも漫画家"手塚治虫"の作品を楽しむことができなかったのです。

今日のnoteは #推薦図書 をお題として、小林正観の著書「淡々と生きる」から「手塚治虫とお母さん」を紹介します。

とても感動する話なので、ぜひ最後までお読みください。

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手塚治虫とお母さん

手塚治虫という人がいました。漫画の天才です。62歳で亡くなりました。池田師範付属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)というエリートの通う学校の生徒だったのですが、そこは先生もすごく優秀で、エリートだらけです。生徒もエリート、先生もエリート。

あるとき授業中に、治ちゃん(本名は「治」)がノートに漫画を描いていました。すると先生が見咎(みとが)めた。「授業中に漫画を描いているとはなにごとだ」と。当時は漫画は市民権を得ていませんから、怒られた。そしてお母さんが呼び出しを受けた。「治くんは、授業中に漫画を描いていたのです。何度も注意したのですが、本当にどうしようもない子なので、ちゃんと注意してください」と言われて帰ってきた。

そして、「治ちゃん、今日学校から呼び出されて先生に言われたんだけど、授業中に漫画を描いていたんですって?」「うん、描いていたよ」「どんな漫画を描いていたのか、ちょっと見せてちょうだい」と、このあたりが世間一般の親子関係とは違うところです。「いいよ」と持ってきた漫画を母親は何も言わずに、1ページ目から読み始めます。そして、終わりまで読んで、パタッと閉じた。

そこで、「治ちゃん、この漫画はとてもおもしろい。お母さんはあなたの漫画の、世界で第一号のファンになりました。これからお母さんのために、おもしろい漫画をたくさん描いてください」と言った。

天才手塚治虫が誕生した瞬間です。

(一部抜粋)

母親論でいえば、母親が子どもを誉めると、子どもはぐんぐん成長します。その誉め方にはちゃんどした方法があります。いちばん大事なことは、順位を誉めるのではなく、ありのまま、あるがままの子どもを誉めることです。あなたのやさしいところが大好きなのよ、というように。

他にも興味深いストーリーがたくさん書かれています。ぜひ、お読みください。

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