暗闇偏愛日記

私は完全な暗闇を求めている。
暗いところに行きたい。
暗い部屋、とか、夜、とか、そういうことではない。何も見えない、いつまで経っても目が慣れることが無い、目の前に自分の手をかざしても、暗闇しかない。自分が本当に手をかざしているのかもわからない。
そういう暗闇を、私は求めている。
暗いところに行きたい。

加えて言えば、完璧な暗闇には音も気配も存在しない。他者の足音や話し声は異物である。空気の流れすら邪魔だ。それらが完全に排除された、純粋な暗闇を私は欲している。

何故か。
わからない。強いて言えば、安らぎの為だろうか。

きっかけは、善光寺のお戒壇巡りだった。
旅行の途中で参拝した善光寺で、記念に行ってみるかと気楽な気持ちで踏み入れた回廊が、私と暗闇の最初の出会いだった。

『お戒壇巡り』というのは、地下の暗闇の回廊を手探りで進み、真ん中あたりにあるなにやら有難い『極楽の錠前』というものに触れると、迷わず極楽浄土に行けるというものである。
暗闇の中を進むことが修行の代わりになるとか、恐らくそういうことだったように思う。

そのお戒壇巡りを初めて体験した私は、圧倒的な暗闇に恐れおののきながら、奇妙な喜びを感じていた。
最初から最後まで、なにも見えない。どんなに目を凝らしても、目の前で「怖い怖い」と繰り返している人の輪郭すら見えない。自分の存在を、誰も認識できない。

人間の存在とは、こんなにも危うく儚いものなのか。
衝撃だった。回廊の中にいる間、私は消滅できるのだ。
などと考えながらも有難い錠前はしっかり触って、私は地上に舞い戻った。
はっきり言って、興奮していた。

我を忘れた私は、後から出てきた団体の観光客を見送ってから二周目に突入した。一周目よりも人が少なく邪魔な声が無い分、暗闇の純度も増しているように感じた。今度は錠前を無視してひたすらに暗闇を堪能した。全く素晴らしい体験だった。罰当たりも甚だしいが、本来の目的などすっかり頭から抜け落ちていた。

暗闇の魅力に夢中になった私が次に出合ったのは、元善光寺のお戒壇巡りであった。
善光寺と同じ長野県内だが、元善光寺がある飯田市は山間の田舎町であり、私が生まれた場所でもある。夏休みに家族で母の実家へ向かう途中、昔住んでいた場所や両親の知り合いを訪ねて回り、よく散歩していたという元善光寺にも参拝することになった。幼い頃に引越しをしたため詳細な記憶は無かったが、訪れてみると、確かに懐かしい景色が広がっていた。

元善光寺にも回廊があることを知った私は狂喜した。善光寺と異なる点は、外から土足のまま入って行けること、途中に阿弥陀如来像がありそこだけ灯りがついていること、そして無料であること。

参拝を済ませた私は嬉々として戒壇巡りへ向かった。自然光から徐々に闇に包まれていく感覚になんとも言えない安堵感を覚える。壁に沿ってゆっくりと進み、完全に暗闇になったところで立ち止まる。今この回廊には私しかいない。心を静めて、全身を暗闇に明け渡す。一時、私は無になる。

一度だけ、暗闇のことを他人に話したことがある。相手は学生時代の恋人だ。心の内を明かせる友人がいなかった私が本心からの言葉を口に出せるのは、恋人の前だけだった。
いつものように彼の部屋で取り留めのない話をしている時に、私は元善光寺の回廊の記憶と、暗闇に感じる魅力をぽつりぽつりと話した。
私が話し終えるまで黙って聞いてから、彼は言った。

「人間が、本能的に恐怖するものがなにか知ってる?」 

そして私の返事を待たずにこう続けた。

「暗闇だよ。」

私達は数秒無言で見つめ合った。
その時彼ははっきりと、『奇妙なものを見る目』をしていた。そしてそれを隠そうとしていなかった。私は、彼に心を許してしまったことを心底後悔した。誰かに暗闇の話をしたのは、後にも先にもこの時だけだった。

初めは濃密な暗闇を思い出して幸せな気分に浸るだけだったのだが、徐々にその感情は変化していった。
辛い時、苦しい時、涙を堪えながら、悔しさに頭痛がするまで奥歯を噛み締めながら、私は暗闇を渇望するようになった。
元善光寺の地下回廊に思いを馳せるのみで気が済むこともあるのだが、どうにも抑えられずに身を浸す暗闇を捜し求めてしまう事が増えた。

社会に出た私は、都内のクリニックで受付の仕事をしていた。誇れる学歴も資格も無い私は、『正社員ならなんでもいい』という非常に消極的な理由でその職に就いた。自身の適正を考慮せずに選んだその仕事は、私にとって過酷なものだった。

強烈なクレーマー患者に罵詈雑言を浴びせられ、閉鎖的な職場で院長の無理難題に振り回される毎日。私は打ちのめされていた。
そしてある日、いつものように起床し着替え化粧をして靴まで履いたのに、出勤時間になっても私は家から出られなかった。
玄関に蹲ったまま、暗いところに行きたい、そればかりを思った。しかし、元善光寺は気軽に行ける距離にない。

縋る思いでスマートフォンを取り出し、検索する。

『都内 地下回廊 戒壇巡り』

画面をスクロールしていくと、『東京都世田谷区』の文字が目に入った。
東京にも、暗闇がある。

職場に体調不良で休むと連絡を入れ、私はすぐさま世田谷へ向かった。
二子玉川駅から少し歩いた場所にあるそのお寺は、玉川大師という名前だった。私の他に参拝客はおらず、しんとした境内に少し怖気づいたが、意を決して本堂内に入る。
奥から出てきた係りの人に戒壇巡りをしたいと伝えると、住所と名前の記帳を求められた。記入しながらとうとうと語られる説明を聞く。

玉川大師の戒壇巡りをすると、四国遍路と西国巡礼をしたのと同じご利益を得られるということ、途中に仏像があること、最期に銅鑼を鳴らして修行が終わること。

ご利益云々はもはやどうでも良かったが、私は神妙な表情を作り、頷きながら説明を最後まで聞いた。地下へと消えていく階段を下りはじめたところで、係りの人に
「階段を下りた時点で無理だと思ったら引き返してください。境内のお参りでも同じだけのご利益が得られます。本当に真っ暗なので、すぐ戻ってらっしゃる方も多いんですよ。」
と声をかけられた。
私は精一杯微笑んで頷くと、不自然にならないようにゆっくりと暗闇の中へ進んだ。

やはり、一般に暗闇は恐怖なのだ。
恐怖に耐えて参拝することが修行なのだ。その修行はご利益を得るためにあるのだから、私が回廊に心惹かれる理由とは正反対と言って良いだろう。他の参拝客が求めるものと私が求めるものの差に、少し悲しくなった。

私にとっての暗闇は、癒しなのだ。休息なのだ。ほっと心安らぐ瞬間を求めて私は暗闇への階段を降りて行く。
私が回廊へ引き寄せられる理由は邪なものなのだろう。言わば私利私欲の為なのだから。

玉川大師の地下回廊は所々に灯りがあり、所狭しと並んだ仏像が灯りの下に次々現れた。全長に対して完全な暗闇の部分があまりに短く、足場の悪い道は急カーブや坂道の連続で、私は暗闇にあまり集中できなかった。
おまけに換気が悪く、全体が淀んだ空気で充満していて、後半は息苦しさを覚えるほどだった。

回廊の出口付近にぶら下がっていた銅鑼を申し訳程度に鳴らして、地上に戻る。ちょうど他の参拝客が入ってきたところだったので、係りの人に声をかけられる前に私はそそくさと立ち去った。

帰り道、消化不良の思いを抱えて歩きながら、自分が暗闇を求める理由を改めて考えた。
私にはきっと、自分の存在が消え去る時間が必要なのだ。自分自身にもその存在を確認することのできない状態こそが、私にとっての安らぎなのである。

他者の発する言葉や音、姿かたちを認知し、他者に自分が捕らえられていることを認識する。それらを繰り返し、私は絶え間なく存在している。
他者の目に映る自分を消し去り、自分自身でも自身の姿を捉えられない状態に身を置かなければ、私は安らげない。私は私を認識することが不可能な状態になることで、もしかしたら自分は存在していないのかもしれない、と思えることに安らぐのだ。

自分で出した結論に、少し寂しくなる。
駅に向かって歩く私の脳裏では、全て泣き顔に見えた回廊の仏像が並んでこちらを見ていた。

最後まで読んで頂きありがとうございました! スキ、コメント、シェア、とっても嬉しいです。 もちろんサポートも、たいへん励みになります。 また読みに来て下さるのをお待ちしてます^^