妄想は私を救うか【日記】
えり子さんが椅子から立ち上がるのが見えた。反射的に走り寄り、彼女の左脇に腕を差し込んで身体を支える。
密着して彼女の体重を受け止めながら、ゆっくり歩く。相手が小柄な女性といえど、大人一人の体重を完全に支えることは難しい。えり子さんのお部屋までの道のりを、グラグラしながら進む。
えり子さんは、両手で私の手を握りしめて爪をたてながら歩いている。私は常々、一度でいいから彼女の握力を測ってみたいと思っているのだけれど、その機会は訪れそうにない。
握り癖、つねり癖のあるえり子さんは、いつも何かを握っている。いつも何かを握りしめている人の握る力は、とても強い。力を加減するという概念の無い彼女に手や腕を握られると、悲鳴を上げてしまうくらいには痛い。痣になったり、出血することもある。それでも彼女から離れるわけにはいかない。転倒と発作のリスクのある彼女を支え、万が一の時にはクッションになるのが私の仕事だからだ。
よろけて蛇行しながら、無事にお部屋までたどり着く。私の右手は、えり子さんの左手にがっちり掴まれている。痛い。変形しそう。そのうち指を折られるんじゃないかと想像して、背中がぞわぞわした。
「お部屋に入りましょう」
声をかけて、室内履きを脱ぐのを手伝う。その間も彼女の興味は私の手を握ることに集中している。手の甲に爪がめり込む痛みに、私は奥歯を噛みしめる。
この痛みへの対処法を考えなければ、早急に、と思う。何の罪もないえり子さんに対して、負の感情を抱きたくない。しかし、痛いものは痛いのだ。そして私は残念ながら、痛いのは嫌いだ。
私が所謂マゾヒストで、痛いのが好きなら良かったのかな、と考えて、すぐに思い直した。利用者さんに対して虐待的だし、マゾヒストの人にも失礼な話だ。それに、仮に痛みが全て快感に変換される体質だったとしても、性的に興奮しながら働くのって疲れそう。却下。
えり子さんに左右の手を交互に差し出して痛みを分散させながら、私は考えた。
痛みが嫌じゃない状況、痛みを受け入れられる状況、どんな相手になら痛くされても良いか。
好きな人がそういう性癖の持ち主、というのはどうだろう。私がマゾヒストなのではなく、好きな人がサディスト。痛がる顔が見たいだけ、というのがサディストに当たるのかどうかはよく分からないけれど、この際細かいことはどうでもいい。痛がる顔を見ないと色々満足できない、という癖の人のことが好きな私。
……いや駄目だ。その人を好きになる過程が全く想像できない。だって私、痛いの嫌いだし。……いや待て、普段は必死にそれを隠している人という設定ならどうだ?
そういう癖を持っているということは知らずにその人……不便だから名前を付けよう。エリでいいか。エリのことを好きになった私は、なんかこう上手い事やって仲良くなり、ある日打ち明けられるのだ。性癖を理由に拒絶された過去とかそういう話を。
こういう経緯なら、たぶん私はどんな癖でも受け入れる。そして歩み寄ろうと努力する。痛いのは嫌だけど、嬉しそうなエリを見られればそれで良い。エリに喜んでほしくて、私は積極的になる。そしてある日、やり過ぎた私はエリにドン引きされてしまう。引かれたことで私の方も冷めてしまい、二人は破局する。
あ、破局しちゃった。
えり子さんをお部屋の中に誘導し、私の手の代わりにいつも握っているオモチャを差し出したところで我に返った。
仕事中にここまで妄想が暴走するのは珍しい。おそらく私は、かなり疲れている。それにしてもエリとは。
ナースコールの設定を確認し、えり子さんの部屋を出る。勝手に名前を借りちゃってごめんなさい、という気持ちを込めて黙礼し、扉を閉めた。
右手の甲に滲んだ血を眺めながら、感情が邪魔だなあと思う。
えり子さんのことは嫌いじゃない。でもやっぱり、痛いのは嫌いだ。
明日は、もっと可愛いファンタジックな妄想をしよう。
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