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知的好奇心が知的探求心に変わる時

本格ミステリーでは物語の冒頭に謎を提示する。
物語を通じてその謎をロジカルに紐解いていくのが本格の定義。
最近では本格ミステリーではない作品でも冒頭で謎を提示するという作品がものすごく増えている。
知的好奇心をくすぐって、その謎が明かされるまで引っ張り続ける。
本格ではないからロジカルに謎が解かれるわけでもなく、ただ淡々とその謎の部分に何があったか小出しに明かしていくだけなのだけれど。

そんな手法が嫌いなわけではない。
むしろ好きだし、これはもしかして!?みたいに考えるのも好きだ。
ただそういう作品ほど、ネタバレサイトみたいなのが生まれたり、予想したりして、結局明かされる事実だけを並べるようなことが起きて、その物語の全てがその謎みたいになってしまって、結局、冒頭の謎の提示以降は倍速だったり早回しで鑑賞して謎が解決したら物語を楽しんだことになるようなおかしなことが起きているなぁと思う。
ちなみに本格ミステリーではそういうことは起きにくいだろうなぁ。
本格以外でこの手法を使っているケースだと起きる現象のように思える。
本格の場合はすべての情報を出したうえでロジカルにそれを線につなげていくのが物語のカタルシスだからだ。
事実を小出しにして、最終的に実はこんなことがあったというだけの物語の場合は結局は起きたことをどう配置するかだけの倒置法だからだ。

知的好奇心というものはとても重要なものなのだなぁと思う。
これは何があったんだろう?これはどうなるのだろう?
それが物語の世界への吸引力になる。
物語を構築する上でのテクニックだ。

ただ僕は知的好奇心みたいなものはすごく刺激されちゃうのだけど。
好きになる作品は、その先の知的探求心をくすぐってくると感じている。
好奇心では済まない感じ。探求してしまう感じ。
ほんとうに重要なことは知的好奇心が知的探求心に変化する一歩の部分なんじゃないだろうか。
謎が解決するカタルシスというのは確かにあるのだけれど、謎でもなんでもないのだけれど理解まで追いつかないというか、考えてしまうというか。
そういうものがない作品は結局、物語を消費するだけで残らないんだよなぁっていうのが僕の実感。
そしてそういう残る何かっていうのは物語のシステムだけでは難しいんじゃないかって思っている。

俳優による演技であったり。
編集で生まれるダイナミズムであったり。
違和感を感じるような音楽であったり。
あらすじでは書けないようなことが探求心に繋がっていく。
僕の場合はいつもそうだなぁと思う。

特に今はサブスク配信で異常な数の作品を目にすることができる。
多くの人が作品を消費し続けているんじゃないだろうか。
面白かったという記憶は残っているのに、どんな話か説明できないなんてことが多くなっているはずだ。
面白かったのであればそれで良いとは言える。
楽しい時間をすごせたのだから、それは良かったに決まっている。
そんな消費される文化を量産できるクリエイターが時代に求められていることも理解しているつもりだ。
だからそんな多くの作品を批判するつもりは毛頭ない。
けれど、自分が創作するのであればとなると話は別だ。
なぜなら僕自身の腹に残っている作品たちがあるからだ。

あの作品のあのシーンのあの俳優のあの表情。
たったそれだけの記憶が僕の頭にこびりついて離れなかったりする。
もうその瞬間の為だけにその作品は存在していたんじゃないかと思ったりするぐらいだ。
好奇心だけでは繋ぎとめることができない。
心ってザラザラなのかなぁ?ひっかかることがあるよ、何かが。
そして何かがあるたびにふと思い出したりするのだ。
そのたびに揺らぐ。

たぶん、人はいつだって探求できるものを探してる。

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