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キラキラしなくても別にいいじゃん|生きづらジオ

生きづらい地味なおじさん二人のYouTubeラジオチャンネル『生きづらジオ』を始めてから、約3ヶ月が経ちました。
このnoteを書いている時点で、29回分の動画がアップされています。
中でも第28回として公開した回が自分としては大事なところに触れていたので、自分用の備忘録的な意味も含めて補足説明のメモをここに残しておこうと思います。

山の不動産屋さん

この回は、山ねこ不動産の中原さんにゲストに来てもらいました。
山ねこ不動産は岐阜県本巣市で営業している不動産屋さんです。
本巣市の山間部などで使われていない古民家を買い取り(たぶん、元は持ち主不明でほとんど放棄されていたような物件もあるみたいです)、丁寧に修繕/リノベーションして売りに出すということをやっているようです。
一軒一軒に「逃げるための小さな家」というようなユニークなタイトルがついていたりして、サイトを眺めているだけでも楽しいです。

中原さんは、生きづらジオの早川くんと僕(小野寺)にとっては、共に在学していたIAMASという小さな学校での先輩後輩の関係です。(もちろん、ホントは誰が先輩で誰が後輩かということがあるわけですが、IAMASはそういった区別が消滅してしまう異次元空間的な場所だったのでここでは割愛します。)
生きづらジオとしては3人目のゲストで、早川くんと僕が共に元々知っていた人にゲストに来てもらったのはこれが初めてのことでした。

キラキラしなくても別にいいじゃん

僕としては、もともと中原さんと僕がある程度共有していた基本的な疑問に、以下のようなことがあると思っています。

【疑問】
みんながキラキラと輝いて誰もが活躍できる社会というのは、果たして本当に素敵な社会と言えるのだろうか?

「みんながキラキラと輝いて誰もが活躍できる社会」というのは、それだけ聞くととても前向きで明るくて楽しいような響きがあります。
なんというか、ちょっとにわかには否定しがたいような「それって、いいでしょ。あなたもそう思うでしょ。」みたいな圧力を感じます。
でも、僕としては、というか、島田で暮らしている僕の体感としては、「そうでもないかもしれないぞ。」っと思えるところがあるのです。

「みんながキラキラと輝いて誰もが活躍できる社会」を目指す志向には、「キラキラしていることはキラキラしていないことよりも望ましい」ということが無意識に前提にされています。
僕の素朴な経験の中で言うと、例えば東京にいた中学生〜高校生くらいの時期にはクラスの中にスクールカーストみたいなものがありました。で、そのカーストの中でけっこう下の方に属していて一切キラキラしていなかった僕は、「上の方の人たちはキラキラしていて羨ましいなあ」と確かに思っていました。

今となってはどうしてそう思っていたのか不思議な気もしますが、中高生の頃の僕は「キラキラすることはキラキラしていないことよりも素敵なことだ」という思いを持っていたわけです。
その後色々あって大人になって映像制作の仕事とかをやったりして、部分的には(ほんっとーに部分的にですが)キラキラしたことも経験したのち、島田に住むことになりました。
で、島田に住むようになってから気づいたのが、以下のようなことです。

【気づき】
あれ。なんかどうも、別にキラキラなんかしたくないと思っている人もいるっぽいぞ。

東京にいた頃には気がつかなかったのに島田に移ってから気づいたと言うのは、東京にはそういう人がいなかったということではなかったかもしれません。
でもまあ、ともかく、僕にとっては東京にいては気がつけなかったけれど、島田に住んでみたら気がつけたということが起こりました。

やがて、そこから発展して「キラキラしていなくても別にそれでいいじゃん。」という考え方だってありえるなということに気がつきました。
さらに、よくよく考えてみると「無理してキラキラしようとしたりするときに、生きづらいということが起こっているかもしれないな。」ということにも気がついてきました。
これは、僕自身がそうだし、僕以外のキラキラしていない人もそうだし、さらにさらによーく考えてみると、キラキラしている人の中にも無理していたりすると生きづらさを抱えているっぽい人もいるなということにも気がついてきました。

と。
こんな流れで、映像制作やイベント制作の仕事を通して「キラキラしたなにか」を生み出すことが自分の役割なのかなあと考えていた僕は、「キラキラしなくても別にいいじゃん」というふうにすっかり宗旨替えすることになったのです。
それ以降、同じ映像制作やイベント制作をするにしても、キラキラしないように作るということが少しづつできるようになってきました。これは、映像制作者の仕事の性質としてはキラキラを目指す作り方よりも工夫の余地があって、やりがいがあって、楽しいことだなあと感じています。

この「みんなキラキラを目指そう」から「キラキラしなくても別にいいじゃん」への転向は、何かを諦めるとか妥協するとかいうことではないかもしれません。
「別にいいじゃん」の方がみんなにとって生きやすいし、そっちの方が世界にとって素敵なことのように感じるようになったというような気がしています。
本人にちゃんと聞いたわけではないけれど、中原さんもそんな感じのことに気づいた時期があったのじゃないかなあと推測しています。(単なる推測なので、全然違ったらごめん中原さん。笑)

そうは言っても、キラキラしたい?

ちなみに、早川くんは必ずしもそうは思っていないようです。
早川くんは、心のどこかで「キラキラしたいな」と思っているようです。
でも、体調のこととかがあってそれができないことに苦しんでいる部分があり、そこから生きづらさにつながっている部分がありそうです。

そうなってくると、僕としては早川くんに「いやいや、別にキラキラを目指さなくてもいいでしょ。」ということを言うことになります。
キラキラすることが本当に心の底から好きで、なおかつ自分でそれを実現できる人ならばそうすればいいと思います。でも、そうでないならば、無理してまでキラキラしなければならない理由は無いと思うからです。
(もちろん、早川くんが心の底から本当にキラキラしたいと願っている可能性だって無いわけではありません。でも、僕にはそう見えていないということです。この辺は僕の感覚でしかない部分もあるので、説得力のある説明は難しいのですが。)

早川くんが「キラキラしたい気もするんだけどね。。。」という意味のことを言い、僕が「いやいや、別にそんなことしなくても呑気に生きればいいでしょ。」と言う。
という流れが、生きづらジオ全体に通っている縦糸の一つのようにも感じています。
最近は、早川くんも少しづつ変化してきたところもあるみたいです。
生きづらジオの「変化」の回なんかをみるとその気配が少しわかりやすいと思うので、もしよかったらご覧ください。

早川くんに限らないのですが、なんかこの、「キラキラしたい→キラキラできない→生きづらい」式の流れで生きづらくなる仕組みには、端的に「キラキラしなくても別にいいじゃん」という考え方の切り替えで対抗できるんじゃないかなと今の僕は感じています。
なので、この点に関して僕は今の早川くんを全肯定する気持ちを持っていません。
早川くんが「キラキラしたい気がする。」と言う時の僕の答えは「ありのままの早川くんでいいよ。」ではなく、「いやいや、キラキラしたいのなんか気のせいだよ!」です。
この点では僕はスパルタ式で、全然優しくないです。
早川くんが患っている発達障害の病理に対する臨床的な観点とかからみるとこれはもしかすると間違っているのかもしれませんが、早川くんと僕という個人間の関係としては、少なくとも今はこちらの方がいいと感じています。

一方で、最近思い始めたことがあります。
「キラキラなんかしなくていいじゃん。そっちの方が生きやすいじゃん。」の先に、もしかすると「生きづらくても別にいいじゃん。」という考え方もあり得るのかもしれません。
この辺はまだ考え中なので、もうちょっと生きづらジオを続けながら考えてみようと思っています。


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