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関東と関西の違い 2

東京は「生きるのが上手な人たちの街」だと感じることがある。

東京には働き口と娯楽もたくさんある。種類はもちろん、レベルも様々。横に縦にも広がりがある街だ。
そうなると必然に選択が生まれる。どこへ行くのか、何をするのか。上野で美術館巡りをするのか、新宿ゴールデン街で飲んだくれるのか、日比谷で帝劇を見るのか、下北沢で小劇場を見るのか。選択肢は無限のようにあり、大抵は楽しい。そう、めちゃくちゃ楽しい街なのだ。ただ、何をしても楽しいのは、何をしても楽しくないのと似ている。自分の趣味嗜好がハッキリしていて能動的に選択肢を取捨選択できる人間にとってこれほど良い街はないだろうが、その反対に、選択に消極的で、あらゆる選択肢を等価に楽しめてしまう人間にとっては、これほど自分が曖昧になる街は無い。僕は後者だった。

縦にも選択肢があるということは、それは即ち階層があることを意味する。タワマン文学が一部で話題になったが、東京が階層社会であることに意義がある人は少ないだろう。大企業と中小企業、勝ち組と負け組、年収が多い少ない、そういう序列と競争に対して、東京は当然という顔をしているように思えた。今の自分の地位は徹底的な自己責任である、というのが自明であるように感じた。

階層社会や自己責任論の是非についてこの記事で語るつもりは無いが、例えるなら、東京は「ちゃんとしている」ということのハードルが高い街なのだ。選択も競争も当たり前だから、それが出来て当然であり、それで初めて「ちゃんとしている」とみなされる。しかし、この「ちゃんとしている」というのが、実は結構ハードル高くないか? というのが僕が東京に感じた違和感だった。

別に僕は東京と大阪を比較して、どっちが優れているとか劣っているとか言うつもりはない。ただ、ただ生きることのハードルの高さ(自己肯定感と言い換えてもいい)を比べた時に、東京は大阪よりも難関である、と思ったことはここに述べたい。

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