人権のなくなった世界

「どんな人間にも人権はある。」

このよくあるあたりの良い決まり文句を聞いたのはいつ以来であろうか。

それは人権という概念がこの世の中からなくなってしまったからではない。むしろ逆である。この世の中に人権と呼ばれるものがありふれて、あふれ出して収まりが効かなくなったからである。それは肌の色、救いを求める神格対象、生活を営む土地、食い扶持をつないでいく手段などの様々な違いによる摩擦熱をエネルギーとして権利のるつぼから吹きこぼれた。

風呂釜に肩までつかりる権利らは、徐々に上がってく水温の上昇に気づかない。そのまま自らに危機が迫っていることも露知らず、他の権利らと談笑をしている。そうして人権は死んだ。浴槽は寸胴鍋となり豚骨を炊くように煮込まれ、ぐずぐずになり、形状を保てず、一つの液体になり、やがて蒸発した。そうして情報量が0になってしまった。もはやすべての人間に人権があることは一般常識を超え、人類の共通認識となった。

最初に風呂釜に薪をくべたものの正体はある一本の論文であった。タイトルは"An Examination of Reincarnation and Its Methods." 日本語に直すと、「輪廻転生の検証とその方法について」である。論文内には、詳細な検証方法が記載されており、まず国内の死刑囚にある特殊なリズムとメロディを持った音楽を聞かせるそうだ。そして、当該の死刑囚の死刑が執行された後、執行後に出生した国内の新生児らにその音楽を聞かせる。反応を示した新生児に対しては、その音楽と同等のリズム量、フレーズ長の別の音楽を数百と聞かせ、反応がないかを確認する。それで特定の音楽だけに反応を示した新生児は経過観察を行い、生前の記憶をインタビューによって呼び起こそうと試みるといった手法であった。また論文は加えて、現在経過観察をしている対象は1件だけではあるが存在したことを最後に添えた。

この論文が某ジャーナルに掲載されると、瞬く間にこの衝撃は世界の研究者に伝播し、皆こぞって研究を始めた。輪廻転生する人種と生前の人種と性別には有為な偏りがないこと、輪廻転生し得る限界の距離は少なく見積もっても10万キロであり地球全体をカバーしていること、生前の行動が輪廻転生になんら影響を与えないこと、などさまざまな事実が発見され、それらが再検証される度に検証の精度は上がり続け、輪廻転生が疑いようの無い事実であることを我々に突きつけてくるのであった。

科学とは一種の宗教である。太古の昔、キリスト教が生まれるもっと前から人間の根底にある。何か未知の現象、自分の今持つ知識だけでは説明できないようなイベントに遭遇した際に、その体験を自分の中に秩序立って落とし込むためにいくつかの手法をとる。それは奉納祈祷啓示といったプロセスであってもよいし、仮説検証考察といったプロトコルでも良い。どちらにしろその道筋をたどって出てきた戻り値を蓄積していったものを我々は宗教とよんでいる。だから科学とは正しくは科学教とよぶべきである。

そして今この文明社会において、多くの人間はこの科学教を信仰している。学校という科学教の教唆を行う教会において、我々はすでに洗礼を受けている。そうして、人々は宗教の中で、科学教を最上位の宗教として持つことになる。教典に書かれていることを表面上信じつつも、科学で実証理論づけされたものの方が正しいと認識している。一部の狂信的な信徒を除き、科学以外の宗教が、科学教の聖書である論文を上塗りすることはできないのである。

そしてこれらの論文は「輪廻転生は存在する」とヒンドゥー教の教典に書かれた下書きの鉛筆の薄い文字を、濃いマジックで上書きした。

そうすると何が起きるのか。 

人間を含め全ての生物は死後自分がどうなるかなどという事は知らない。知りようがない。それゆえに、死は最大の恐怖であるし、死後の世界は最大の興味を惹くものでもある。今それが解明された。死ぬと生まれ変わるという神話は紛れもない事実であった。自分でない他者はもしかすると自分であったかもしれないし、いつそうなるかも分からない。自分はそうはならないと思っていた被差別側グループの人間に生まれ変わる可能性がある。そうなると、皆人権を主張し始めた。アメリカの大企業は内部留保をやめて、貧しい地域へのインフラを推し進め始めた。白人の黒人への差別は無くなり、政府は医療の無料化を宣言した。
一方で自殺率が大幅に増加した。死は終わりではなく救済であり、ソシャゲのリセマラを躊躇なくするように恵まれない人たちは人生をアンインストールした。こうして人間には普遍的な権利が存在しという主張は綺麗事でも何でもなく、自分の権利を主張する文言へと変化した。

最初の方、人権は死んだと述べたが正確には違う。人権は権利ではなく保障に置き変わったというのが正しい。人々は自分が死んだ後も生前とは別の知らない人種の知らない土地の知らない誰かとして生きていくことを今は本当に「信じて」いる。

しかし、皮肉なことに人権という概念は換骨奪胎され見るも無惨な形になったが、世界は平和になった。テレビで見ていたアフリカの貧困者の映像は将来の自分の姿かもしれない。そのリスクを回避するために人々は争いを止め、世界全体での経済発展を望むようになった。

そんな中、とある論文が発表された。タイトルは
“Statistical Estimation of the Percentage of Broilers for Meat Reincarnated from Humans.”日本語に直すと、「人間から輪廻転生した食肉用ブロイラーの割合の統計的推定について」その論文の文中においてブロイラーのうち、およそ5%、少なくとも2%は人間由来であることが推定されたと述べられた。世界は大騒ぎである。すぐに鶏に対して権利が認められ、鳥を神聖視する宗教までもが誕生した。喧騒醒めやらぬ中、また別の論文が続々と投稿される。”Verification of human reincarnation in beef cattle and its frequency”「肉牛に人間が輪廻転生することの検証とその頻度について」”Evidence of human reincarnation into orangutan and how to verify it”「人間がオラウータンに輪廻転生することの証拠とその検証方法」

しかしながら、人類の希望として無制限に輪廻転生する訳でもなさそうだという論文も出てきた。”Investigation of the limits of reincarnation by type and its methods.”「輪廻転生の種別限界の調査とその手法について」論文によるとどうやら人間の輪廻転生は少なくとも哺乳類に限定されるであろうことが述べられている。それに続いたのが”Probabilistic Effects of Genetic Distance on Reincarnation”「遺伝子的距離が輪廻転生に与える確率的影響」である。この論文から研究者らの関心は輪廻転生の範囲から確率にシフトチェンジし、研究が進むにつれ人間の大半は人間に輪廻転生することが分かった。地球上全ての生物が保護の対象となるような事態は避けられた。アリを踏むのさえ躊躇うのはこの時においては熱心なジャイナ教信者だけに逆戻りした。

世界は落ち着きを取り戻した。

しかしそれは長くは続かなかった。世界の人口が急激に減少し始めたのである。言い換えると出生率の異様な減少傾向が顕現し始めた。特にアフリカなどの元々貧困地域であった国の出生率の減少は顕著であった。この事実にはさまざまな考察がなされ検証された。若者の自殺率の増加(リセマラ)説、経済厚生の改善による働き手の役割を期待した出生の減少説、野生動物保護にの動きによる輪廻転生先の変更説、輪廻転生をしてきた子への忌避感説など、多くの説が出てきて、それらの説がおおむね正しいとされる検証結果も上がってきた。しかしながら解決策を見出せる者は人類のなかで一人もいなかった。こうして人類は全ての人間が人として生きられるようになったのにも関わらず、緩やかな絶滅へと現在向かっている。このままのペースでゆくとあと500年程で人間は文明社会を維持できなくなるそうだ。

だがもし人間がいなくなっても元人間であった魂は、生物の箱を乗り換えつつこの宇宙に在り続けていくはずではある。人間であったことを忘れ、生前に残した権利を手放し、本能に従って生きる存在になったとしても、魂は同一である。回って回って回り続ける。それは地球が太陽に飲み込まれ果てるその時まで続く長い旅路であろうとしても。




上記の物語はフィクションである。

私たちの世界線では、「輪廻転生の検証とその方法について」なんていう冒頭の論文は発表されていない。

だけれども「人権」とは本当に存在するのだろうか。

元々、人権とは固定階層が壊れたフランス革命時のフランス人権宣言において掲げられた一つの考え方、主義思想である。この命題、主張が正しいとする根拠は科学教において存在しない。

それではなぜ人権という考え方は人々の教典において大々と存在しているのだろうか。

それは心の奥底に輪廻転生を信じる自分がいるせいであろう。別に輪廻転生でなくも良い。生きながらも虐げられし側にいつか回るかもしれないという考えでも良い。それでもそれは宗教以前の想像に過ぎない。しかしそうでなければ、隣国で起きている戦争を見すごせはしないし、高架に下に居を構えるホームレスに手を差し伸べるはずである。それゆえ我々の大半はその権利を守ろうと積極的に動きはしない。恵まれし者は恵まれ続け、虐げられし者は虐げられ続ける。人権が叫ばれるのは勝者の免罪符が弱者への消極的権利の付与であり、不安な想像への掛け捨て保険として都合が良いからである。これを上の人間は隠すように今まで「人権」と呼んでいるに過ぎない。人権とはそもそも虚構だったのかもしれない。

ただこの虚構かもしれない存在が人間社会の骨組みとして機能していることは確かである。私はこの脆くて細い柱が科学教によって折れないことを祈るばかりである。










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