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複数の「自分」を抱えて生きていくこと

福音館書店の『母の友』という母向け雑誌があります。うちの保育園は同社の絵本が大好きなので、その流れでわたしもちょこちょこ読んでいます。今回の4月号はこれまで読んできた中で一番好きでした。

「自分」とは空に浮かぶ雲のようなもので、過去の記憶を保ちながらも常に形を変えるんだ、とか。
人生は仕事のプレゼンとは違うし人はもっと複雑なのだから、「早く」「分かりやすく」を目指すことないだろう、とか。
自分に対して無関心でいてくれるもの(自然とか)に癒されることもある、とか。

この辺りの言葉が染み入っている自分を、少し意外な気持ちで観察しながら読みました。

どうも日常を生きていると、認知しやすい情報のやりとりに精を出してしまう。誰から見ても誤解のない情報になるように加工する、認識があっているか確認する、など。私の仕事のほとんどは情報整理なので、もうこういう考え方が染みついていると思います。仕事以外のさまざまな場面でも「どれかひとつ」に絞ろうとしがちだな、と。情報にしても、自分にしても、相手にしても。

2014年の終わりごろの私は、これまでの人生最大に崩れていました。なんかもう、自分でも自分が分かんなくなってたんですね、いま思うと。

その時わたしが何をしたかというと、一人でニューヨークに行きました。どうしても現地で見たいお芝居があったからというのが表向きの理由なんですけど、本当はなんだか無性に、遠くに行きたかったんだと思います。
その旅で一番覚えているのは、一人でニューヨーク公共図書館の階段に座っていた時のことです。ここね。

前の道を歩く人たちをみて「いまここにいる人は誰も私のことを知らない」と思ったら、嬉しくて嬉しくて、気持ちよくて、もうずっとこのままここに座っていたいと思いました(気温マイナスの真冬だったんで、無理なんですけどね)
知り合いは絶対にいない、日本人もいない、アジア人もほとんどいない、誰も話しかけてこない、そういうところに一人でぽつんと座ってる自分が最高に心地よくて、久しぶりに心がぽっと温まったのでした。

あれは何だったんだろう?と長いこと不思議だったのが、今回の記事を読んでナルホドと思いました。あの時わたしは、街の無関心さに癒されていたのだろうと思います。

2014年までの数年間、わたしは一生懸命に自分を”統一”させようとしたし、関わっていた社会の持つ見えないルールに合わせようとしました。その結果、自分の中にいる複数の自分や、雲のように形を変える自分を無視して、どんどん切り捨てて、溢れてこぼれてバラバラと散らかっていたのだろうと思います。

そういう”じぶん”を、誰も知り合いがいない・価値観の違う外国の街が、居させてくれる…という感じだったのかな。今ようやく言語化できてきました。

週末、高校時代の友達に会っていました。学生時代から大の仲良し…というよりは、大人になってから何だかよく会うようになって、気がつけば半年に1回くらいの定期会合に。近況報告にも花が咲く、いい友達です。

彼女は、なんというか懐が深くて。
介護のお仕事をしてるからでもあるのかしら。私の感覚ではなかなか人に話せないようなことも、軽く受け止めてくれるのでありがたい。

しかも高校時代からの知り合いです。そりゃあもうカッコ悪い、若かりし頃の粋がりや失敗を知っちゃっているのです。今さら取り繕いようもない。

「こんなことがあってさぁ…私って成長してないのよ、またやっちゃったよ」なんてことをケーキつつきながらこぼしても「まぁでもアナタらしいよね、昔からそんな感じじゃん」と言ってくれる。言われてこちらもハタとする。「そうか、私ってこんな感じか」「そうだよ」ケーキ、ぱくり。美味しい。そうか、じゃあいっか、無理に成長しようとしなくても。仕方ないね、これも私か。

こんな感じの、仕事を進めるオニツカさんや、保育園生活をこなすオニツカさんでは出せない顔を、彼女は「あなたってそういうとこもある人だよ」と言ってくれる。うーん、なんてありがたいんだろ。
代わりに?私は彼女が推している若いアイドル君の話なんかをふむふむと聞いています。彼女にとっても私がそういう存在であったら嬉しいな。

”わたし”は複数いるし、矛盾しているし、それでいいや。

そのことを、もう少し大事にしていきたいと思っています。noteに徒然と書いてみるのもそうです。吉田兼好や清少納言もそうだったのかしら。だとしたら古くからあるひとの感性ということかな。心強いわ~。

それに、いまやっているカウンセリングの勉強で「語ることは呼吸することと同じくらい大切なこと」という一節がでてきて、私はこれを心のメモに大事に残してあります。
”語る”は”書く”よりもさらに頼りないです。言ったそばから消えちゃいますからね。正確である必要がないというか、むしろ変化することを楽しむというか。変化するために語るというか。そういう側面があると思います。
時と相手を選びながら、矛盾した自分を語って「それでいいよ」と受け止めてあげたいです。

そして、矛盾した相手へ「そういうもんだよね」と言える人になりたいな。

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