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【セシル・フィルダー】MLB屈指の長距離砲ながらライバルに阻まれ出場機会に飢えていた大砲は大阪で多くの仲間と助言を得て開花 1年で米国に戻るとMLBで最も稼げる選手となった奇跡のストーリー

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、セシル・フィルダーを
取り上げていきます

https://www.youtube.com/watch?v=wf2IkWBF1nw

1963年、アメリカ合衆国カリフォルニア州に
生まれたフィルダーは
ネバダ大学ラスベガス校を卒業した1982年、
ファーストを守る右の大砲として
MLBドラフト4巡目で
カンザスシティ・ロイヤルズに指名されました。

3年後の1985年、
トロント・ブルージェイズ移籍をキッカケに
メジャーデビューを飾ると
主に左投手専用の指名打者や代打要員として
通算220試合に出場、4年間で31本塁打を記録します。

特に1987年シーズンは14本塁打を放つなど
MLB屈指の長距離砲として期待されましたが
同時期に同じポジションには
フレッド・マグリフや、後に福岡でプレーした
ウィリー・アップショーなど
守備位置が競合する多くのライバルがいた事から
なかなか出場機会に恵まれませんでした。

レギュラー獲得が困難なうえ、
年俸は12万5000ドルで頭打ちとなっていた
フィルダーは日本を含めてレギュラーを
確約できる球団を探していたところ、
前年退団した史上最高の助っ人
ランディ・バースの後釜を探していた
阪神タイガースから4番打者として
オファーが届いたのです。

25歳の若さながら
すでに愛妻と5歳の息子、プリンスを
支える大黒柱だったフィルダーは
「とにかく毎日プレーしたかった。その機会が
トロントではなく日本にあった。試合に出られない
イライラを家族にぶつけて迷惑をかけたからね。
年俸105万ドルというのも魅力的だったんだ」と
日本行きを決断、身長190センチ、体重124キロの
助っ人は海を渡って来たのでした。

バースの背番号44を引き継ぎ
キャンプ地に現れた大砲はスイングの豪快さから
「荒熊(あらくま)」いうニックネームが
付けられると、場外アーチを連発、
左中間フェンス後方には高さ7メートルの
フィルダーネットが設置されるほど
2年連続で最下位に沈む村山阪神の救世主と
期待されたのです。

しかしいざオープン戦が始まると
外角のスライダーやフォークに全く対応出来ず、
14打席で10三振と散々な成績に
季節外れの大型扇風機と酷評されましたが
日本投手の変化球の多さとコントロールの良さを
知った助っ人は戦術を変更しました。

ホームランよりもライナーを打つ事に重点を置き、
日本の狭い球場ならそれでもホームランになると
意識を変えたほか、コーチ陣の打撃指導や
友人ブーマーのアドバイスにも
素直に耳を傾けたのです。

3番フィルダーの後を打つ4番岡田は
「何でも振らずにちゃんとボールを見極めろって
アドバイスしたんだ。メジャーから鳴り物入りで
入った選手だったら聞き入れることは
なかっただろうけど
彼は貪欲に、全てを吸収しようとしていたね」
と日本の投手にアジャストするため
必死だった大砲は
オープン戦最後の2試合で本塁打を含む
6打数6安打と光が差し始めました。

さらに来日中だったランディ・バースに
接触し、日本の生活について悩みを打ち明けると
「いろいろ話が出来て良かった。
自分のやり方でやればいいということが
分かったよ」と助言をもらいながら
自信を深めていきます。

迎えた1989年4月8日の広島戦、2点ビハインドの
8回ノーアウト一二塁(いちにるい)で
打席に立った助っ人は
1ストライクから長冨(ながどみ)投手が
投じた内角の直球を振り抜くと
レフトスタンド上段に130メートルの逆転弾を放ちました。

「最高の気分さ。名将アール・ウィーバー監督の本に
投手は満塁を嫌うから、一番本塁打が出やすいのは
3ランだと書いてあったんだ。そのイメージを頭で膨らませて
打席に向かったのが良かったね。
こういう場面で打つことが自分の仕事。
みんなが最後まで諦めなかった結果だよ」と
10年ぶりの開幕戦勝利を呼び込んだのです。

5月にも推定160メートルの
東京ドーム看板直撃弾で観客の度肝を抜くと
6月には本塁打、打点の2部門でヤクルトの
ラリー・パリッシュと並んでトップに立ち、
7月は月間MVPにも輝きました。

3打席連続本塁打や
同一カード8試合連続ホームランなど
特に横浜をカモにしていた助っ人を石井コーチは
「狙い球がピタリと当たるクレバーな男」と
絶賛しましたが、38本塁打とトップを
快走していた矢先、思わぬ落とし穴が待っていたのです。

960グラムのバットを振り回し、
ルーキー・リーグ時代に
175メートル弾を放った事もあるという怪力助っ人は
「アメリカであれだけフォアボールを出したら
監督に怒られるよ。かわすピッチングって
やつには本当にストレスが溜まるね」と
次第に勝負して貰えなくなってきたイライラから
不満を口にすると、9月14日の巨人戦の第2打席、
三振を喫した事に腹を立てて叩き付けたバットが
右手を直撃しました。

その後も打席に立ち続けましたが
試合終了後に病院で診断した結果は骨折、
「本当にバカだった。天然芝なら良かったけど
人工芝だったからバットが跳ね返ってきたんだ。
あれがなかったら、球団も契約を延長してくれたと思うし、
あと5年はタイガースでやっていただろうね」
と振り返っています。

無念のドクターストップを宣告され、
3本差で本塁打王は逃したものの
来日初年度から打率3割2厘、38本塁打、
81打点に、長打率はラルフ・ブライアントを
上回って両リーグ1位に輝きました。

当然、契約更新を望んだ阪神でしたが
フィルダーの代理人はこの年、本塁打王を
獲得しながらも三振の多さを理由に解雇された
ヤクルトスワローズ、ラリー・パリッシュと
同じだった事から
「日本の球団は何を考えているのか理解できない」と
激怒した代理人が阪神にも年俸の大幅アップと
5年契約を要求、解雇されたパリッシュを阪神へ
入団させ、フィルダーの契約延長はご破談となったのです。

わずか1年で帰国する事になった助っ人は
デトロイト・タイガースと2年300万ドルで契約、
メジャー復帰を果たすと、日本で学んだ変化球打ちと
ボールの見極め術で才能が開花、不動の4番となりました。

開幕前はメジャーの実績乏しい日本帰りの
肥満体型を揶揄してスモーレスラーとバカにされるほど
フィルダーの活躍に懐疑的な意見が大半を占めていましたが
本塁打を量産することでその声を打ち消すと
ア・リーグの本塁打、打点両部門1位のまま前半戦を
折り返します。

スパーキー・アンダーソン監督は
「日本で継続的にプレーした事で
試合勘を掴んだようだ。今の彼は誰にも止められないね」
と語り
アスレチックスの強打者ホセ・カンセコも
「あのパワーは本物だ」と舌を巻きました。

最終的にジョージ・フォスター以来13年ぶり11人目の
大台突破となる51本塁打にリーグ最多の132打点で
二冠を獲得すると、翌1991年も2年連続で
本塁打王と打点王に輝き、あっという間に
MLBを代表するスラッガーに成長したのです。

当時、日本車の輸入攻勢に苦戦を強いられていた
アメリカと貿易摩擦問題に発展し、特に車が
主要産業であるデトロイトでは日本に対する
反感がより強い地域でしたが
巨人から出戻り入団したビル・ガリクソンの活躍も相まって
「デトロイトが受け入れた唯一の日本製品は素晴らしい」と
称されました。

1992年も後に阪神でプレーするロブ・ディアー、
ミッキー・テトルトンと30発トリオを結成し
ベーブ・ルース以来の
アメリカンリーグにおける3年連続の打点王に輝くと
年俸150万ドルでスポーツ史上最大の掘り出し物と
言われていたフィルダーは、MLB年俸額1位の5年3600万ドルで
契約を更新、名実共にメジャーを代表するスーパースターに
なったのです。

初めて盗塁を成功させた1996年、移籍した
ニューヨーク・ヤンキースで世界一も経験しましたが
その後は数球団を渡り歩き、1998年に引退を表明すると
12歳の時に木製バットでタイガー・スタジアムの
ライト2階席に打球を叩き込んだという長男、プリンスの
代理人となりました。

引退後の生活も順風満帆かと思われていましたが
1999年2月、カジノで数時間のうちに58万ドルを使うなど
ギャンブルにのめりこんでいくと
莫大な借金を抱えて生活に困窮、
フロリダの豪邸はゴミが散らかり放題で自己破産したうえ、
アルコール依存症も原因で別居中の妻と離婚後、
蒸発したと報道されたのです。

愛妻家として知られ、毎朝子供の朝食を作っていた
マイホームパパでもあったフィルダーの惨状に
心配の声があがりましたが、依存症治療を受けて復活、
2007年には独立リーグの監督に就任し、
社会復帰を果たしました。

2011年、父のプレーしたタイガースと
9年総額2億1400万ドルという大型契約を結び
「右投手が多いから左打ちのがいいと言ってくれたのが
父からの最高の教えかな」と語っている息子プリンスとの
関係も修復したフィルダーは
「今はフロリダでのんびり過ごしているよ。
5人の子供がいるからリトルリーグの指導や
ヤンキースOBとして球場案内係の仕事を
することもあるけどね。
阪神で過ごした時間が僕のキャリアを大きく変えたんだ。
あの経験がなければ今の自分はないよ。
ピッチャーの動きやクセを読んだり、
とにかく頭を使えって教えてくれてね。
特に岡田さんには一番世話になったな。
家族ぐるみでお宅にお邪魔して
プリンスと岡田さんのお子さんと遊んだりね。
本当にグレートなリーダーだよ」と述懐しています。

デトロイト時代、フィルダーのロッカーには、
富士山の前を新幹線が通過している絵葉書が
1枚貼られており、アメリカのメディアから
打撃について問われると
「オカダサンに教わったんだ」と毎回答えていた
大砲は、セスのニックネームでチームに溶け込み
仲間から愛されました。

2022年、アフリカンアメリカン・レガシー賞の
表彰式に参加した助っ人は
「最近の野球は大きく変わったね、私の頃は
相手投手の攻め方をイメージしたけど
今は分析されたデータ通りにプレーするだけ、
クレイジーだね。
親子でメジャーリーガーになる秘訣かい?
父にとっては家族を養うための仕事だけど
子供たちは自然に野球を楽しんでいる。
それが何より大事さ。プリンスも
日本で色んな球場に連れて行ったから
自然と野球を始めたんだと思うよ」と語っています。

ホームランを打たれた相手投手から
「パリまで飛んでいったかと思った」と言われるほどの
怪力助っ人は、メジャーでピークを過ぎたベテラン選手が
最後のチャンスを求めて来日するケースが多かった時代に、
ひとり大阪に降り立ち、多くの仲間やコーチの助言を
素直を受け入れると、MLBナンバーワンプレイヤーに
登り詰めるというシンデレラ・ストーリーを体現した
ビッグ・ダディこと、セシル・フィルダー

https://www.youtube.com/watch?v=84tbG4TM-2U

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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