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【ボビー・ケッペル】幼少期からスポーツ万能な少年はドラフト1巡目で指名されるも長いマイナー生活の末 日本にやってくると大躍進 真面目な性格でチームに溶け込み 帰国後は驚きの決断をした助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、ボビー・ケッペルを
取り上げていきます

https://www.youtube.com/watch?v=gx2hAsZfVng

1982年、アメリカ合衆国ミズーリ州に生まれた
本名ロバート・グリフィン・ケッペルは
11歳の時に選出された
ミズーリ州少年野球チームの
一員として来日したほか、サッカーや
バスケットボールでもスポーツの才能を
発揮していました。

高校入学を機にバスケットボールと
野球の2種類に絞ったケッペルは
ポイントガードとして
母校を初の王者に導いたばかりか
野球のほうでも投手として
セントルイスの代表に選ばれるなど
両種目で活躍した事から
アスリート・オブ・ザイヤーに輝いたのです。

2000年のMLBドラフト会議で
ニューヨーク・メッツから
1巡目指名されると、入団後もプロ生活の傍ら、
両親の母校であり
2歳上の姉も通っていたノートルダム大学に
通学しながら、ビッグリーグを目指していました。

長いマイナー暮らしを経て移籍した
カンザスシティ・ロイヤルズで
2006年5月25日、ようやく
メジャーデビューを飾りましたが
0勝4敗の成績に、その後は
コロラド・ロッキーズや
フロリダ・マーリンズ、
ミネソタ・ツインズなど
複数球団を転々としていたのです。

2009年、ツインズの3Aで55回を投げて3勝3敗、
防御率2.43と自己最高の成績を収めた事から
メジャー再昇格を果たした27歳の長身右腕は
リリーフとして37試合に登板するなど
光が見え始めていた10月6日、
勝てば地区優勝が決まる
ワンゲーム・プレーオフの延長11回から
8番手を任されると
チームがサヨナラ勝ちをおさめた事から
メジャー初勝利を手に入れました。

若手の成長株としてツインズは来季の
構想にケッペルを入れましたが
ローテーションを任せられる先発投手を
探していた
北海道日本ハムファイターズのスカウト、
ハーグシャイマーとマット・ウインタースから
移籍話を持ちかけられたのです。

当初は難色を示していたツインズ側も
「長いマイナー暮らしで野球イコール仕事だと
割り切るようになっていたけど、やりたかった
スターターとしてのオファーだったから
日本に行きたかった」と最終的には本人の
意向を汲んで快諾、
年俸50万ドルの2年契約を結んだ
身長196センチ、体重97キロの助っ人は
海を渡って来たのでした。

日本ハムの山田GMは
「シンカーやカットボールを駆使して
巧みに打者を打ち取る術(すべ)を
心得ていて、昨年はストレートも
153キロを計測していると聞いた。
本当に楽しみ。ツインズのGMからは
性格が素晴らしいとお墨付きも貰っている」と
期待を口にすると、
北の大地に降り立った背番号31は
「パリーグの強豪に入団できて家族共々
大変喜んでいます。日本でプレーしたいと
いう希望が叶いました、日本一奪還に
貢献できるように頑張ります」
と意気込みを語りましたが
3月22日の開幕3戦目、左脇腹を痛めて
わずか17球で降板したのです。

梨田監督は沈痛な表情で
「期待していた投手だったから長引くのが怖いね、
ピンチはチャンスだと思って
やっていくしかない」と落胆しましたが
4月8日に再登録されると6回4失点で初勝利、
さらに5月には初完投と、低迷していたチームの中で
順調に勝ち星を積み重ね、
ダルビッシュ有、武田勝と共に
先発ローテーションに加わりました。

最終的に158イニングを投げて
12勝8敗、防御率3.35、
被本塁打は10本と好成績をマークすると
翌2011年、東北地方太平洋沖地震が発生し
シーズン開幕を前に多くの助っ人が母国に
避難するなか、
日本を勇気づけたいとアメリカの家族を
逆に日本に呼び寄せ
「一番大事なのは被災者の助けになるような
投球をすることです」と2年目の活躍を
誓ったのです。

1年目の援護率はリーグ3位の6.11、
2年目は12球団トップの5.19をマークすると
8失点しても味方打線が9点取って
負けがつかないという脅威の勝ち運を発揮、
14勝6敗、防御率3.22と前年を上回る
好成績を残しました。

シーズンオフにブライアン・ウルフと同時に
球団最速で契約更新を行った助っ人は
その人望から外国人では異例の選手会役員に
選ばれて特別アドバイサーに就任しましたが
3年目となる2012年は
痛めた右肩手術のため、未勝利に終わったのです。

「いつ解雇になってもおかしくないのに、
またチャンスをもらえた。残りのシーズンで
恩返ししたい」と再起を誓った2013年7月、
千葉ロッテ戦に先発したケッペルは
5回2安打2失点の好投を見せて
639日ぶりの勝利を手に入れました。

お立ち台で長かったリハビリ生活を振り返って
声を詰まらせる一幕もありましたが
「自分もこうして投げられたので
一緒に復帰を目指してきた斎藤佑樹に
これを渡してください」とコーチに
ウイニングボールを託したのです。

しかし球団から来季の契約は結ばない事が
発表された助っ人は
「チームの力になれず申し訳なかった」と
謝罪コメントを残し、栗山監督は
「自分が監督になる前から貢献してくれた。
ケッペルの野球人生がこれからも
良きものになるよう祈っています」と
労いました。

4シーズンで28勝をマークした右腕は帰国後、
シンシナティ・レッズのマイナーチームと
2年契約を結んで
再びメジャーリーグを目指すと
「2000年のMLBドラフト1巡目で指名され、
日本で4年間スキルを磨き、アメリカでそれを
活かすべく、戻ってきた。ビッグリーグで
先発投手になるのも時間の問題」と
地元メディアに報道されましたが
31歳になったケッペルは
思いもよらない決断をしたのです。

2014年のスプリングトレーニング前、
1人で造園業を経営していた父親に
癌が発覚した事から、引退して実家に戻り
事業を継承する事を決断した助っ人は
「父には私の力が必要だったから
すぐに妊娠6か月の妻と3人の子供を連れて
実家に帰ったよ。
他の選手にとっては苦渋の決断かもしれないけど
私には簡単だったね。
時が経つにつれ、もしもあのままプロ野球選手
だったらどうだっただろうか、
メジャーリーグの先発投手になって
いたかもしれない、なんて思う事もあるけど
個人の野心よりも家族が大事だという事は
知っていたからね」と振り返りました。

平均球速144キロの重いツーシームを中心に
小さく変化するスライダーやシンカーで
ゴロの山を築く投球術を見せ
2年連続2ケタ勝利をあげた背番号31は
温厚で真面目な性格からすぐにチームに
溶け込んだほか
「取材して頂きありがとうございます。
好意を持って記事を書いて頂いたと
伺いました。新聞は
ファンとのコミュニケーションツールだと
思っています。その役目を果たして頂き
感謝しています」とメディアへの
気遣いも一流だったのです。

大の親日家として寿司や刺身、味噌汁など
和食を好み、1人焼肉もこなしていた助っ人は
シーズンを大切にしたいと
夫人の出産には立ち会わず日本に残ると
家族とコミュニケーションを取るために
毎朝7時に起きてウェブカメラを設置、
画面越しに家族と食事を共にしていました。

「好きな日本語はオツカレサマですね、
この言葉には、多くの意味が込められていて
英語では見当たらない。日本の文化を上手に
表現しているなと感じます」と語ると
チームが連敗中は全員にピザを振舞い、
デッドボールを当てたら素直に帽子を取り謝罪、
さらに被災者を呼び寄せてチャリティーを
開催したり、病床の子供たちを励ますために
球団に直訴して病院へ慰問するなど、
いい人エピソードのオンパレードなのです。

「ツルは最高の捕手。自信を持って」と
大の仲良しだった鶴岡捕手を常に持ち上げ、
MLB入団当初から地元のボランティア活動に
積極的に参加していたというカトリック教徒は
現在は宣教師として本物の聖人に近づいた
勝ち運聖人、ボビー・ケッペル

いかがでしたでしょうか?
これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちを
ご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。
ご視聴ありがとうございました

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