先生、そんなことはお気になさらず 

 「君には何も指導してあげんかってすまんかったね。」

 修士終了後、何度かお会いした時の田渕先生の口癖である。僕は決まって「そんなことないですよ。」と真剣に告げた。しかし、先生の意識は、僕が修士2年間で何を学んだかということよりも、指導教官として、私に対し充分に「指導」ができなかったことにあるようだった。

 以下に先生の思い出を記しておきたい。

 先生と修士生で全国社会科教育学会、広島大学へ行ったときのこと。学会の重鎮教授の基調講演が先生の気に障ったらしく、突如、先生は「明日、奈教に帰ってみんなに講義をする。」と怒った口調で言いだした。その「特別講義」で先生が解説したのは、小学校の「お母さんの音」という古い実践と意義についてだった。現場で通用しない大上段に構えた理論にわけもわからず頷くよりも、市井の、現場の、子どもの生活に根差した実践から学べということだと私は受け取った。田渕先生は、研究のための研究よりも、現場の先生や子どもたちへのエンパワーメントを大切にした人だった。そして、反骨の人だった。

 もう一つ。

 田渕先生の奈良教育大学の退官記念パーティーでのこと。出席者のほとんどは私達を含めた大学関係者ではなく、先生がライフワークとしてコミットしてきた在日コリアンをはじめとする、外国にルーツを持つ家族や若者達、その支援者の人々だった。中には先生のことを「アボジ(朝鮮語で「お父さん」!)とさえ呼ぶ若者もいた。先生との別れを惜しむ人々を目にしながら、かつて、夕刻になると足早に学外へ行く先生の姿を思い出した。その先に、彼ら彼女らがいたことを改めて想像した。先生は大学の研究者であったが、それ以上に、何のための学問研究か、教育者はどうあるべきかという価値や生き方を私に示してくれた人だった。

 日夜過ごした、奈良教育大学の院生室が懐かしい。そこは社会科教育学の院生だけでなく、様々な分野の院生や留学生、学部生、聴講生などが集う場だった。時に馬鹿話を、時にディスカッションを、そしてそれ以上に学外で遊び、お酒を酌み交わした。それを常に推奨したのは、田渕先生自身だった。先生はそんな私たちを微笑んで見守っていてくれた。私は院生の中でも、十分な研究もせず、ただただ2年間を先生に甘え、自由気ままを謳歌しただけの劣等生だったに違いない。

「君には何も指導してあげんかってすまんかったね。」

 ご縁があって先生に出会えたこと、先生が大切にしていた価値や生き方に触れ、感じ、刺激を受けたこと。何よりも、他大学他学部の私が奈良教育大学田渕研究室で修士2年間を、多くの仲間たちと楽しく、自由に学び、過ごせたことに、今も、本当に、深く、感謝しています。

 「先生、そんなことはお気になさらず。」

 ご冥福をお祈りします。 

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忘れられない先生

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