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「付いて来い!」から「お願い助けて」の人に                                           なれた男からのメッセージ


はじめに


自分の弱さを認めて強くなる。                                     お題目としては簡単なことです。
でも満身創痍で自殺を願うようにまでになったボロボロの状態で
それを言えるか、やれるか。多分、無理です。自分1人の力では。

弱さを認めることは、助けを求められること。
助けてと言える人が見えていることでしょう。

お話を伺った渡邉清高さんは、裏横浜、若葉町で老舗お弁当屋さん「うお時」を仕切る三代目社長、いや「大将」です。このインタビューは、渡邉さんの地獄のドン底体験から掴み取った智慧のお話です。だから「これから頑張る人」に効くはずです。いや、ほぼ全員の「絶望に効く薬」かもしれない。組織論としても、マネイジメントの根幹マナーとしても、きっと役立つストーリーです。ゆっくりお楽しみ下さいね。

今回お話を伺ったのは渡邉清高さんです 

自分の弱さを認めるまで

オンキ:渡邉さんの今の状態を教えてもらえますか?

渡邉 :今年の秋で49歳になるんですけど、多分人生の中で一番シンプルになった感じです。いろんな経験してきたけど単純に、ものすごく単純に「誰かのサポートをしたい」ってことが自分の一番好きなことなんだと分かったかな。自分のことより、他者に関わったり、助けたりが一番の自分の喜びだと。

俺は、本当に失敗した男です。破産しかける、離婚はする、家族なくなるわ、裁判ざたになるは、いろんなことがあったけど、結果的に生き残ってるし、否応なくだけど変化してきてる。10年ぐらい前は「俺がやりたいようにやって会社を良くする」とか「俺が考えたことをみんなで一緒にやって盛り上がろうぜ!」って先陣切ってた。それが俺だ!と思ってたんですよね。でも、ふっと後ろ見たときに「あれ誰もいないじゃん?」って気づいちゃったわけです。お店を次々出したりしたけど、全部撤退しなきゃいけないぐらいの失敗した。タイミング悪いことに会社の業績が悪くなったのが結婚して1年目2年目だった。「いい旦那さんになりたい、ちゃんとしなきゃ」と思って自分なりに頑張るけど結果が出なくて、余計プレッシャーを感じて、うまく回らなくて、鬱病になっちゃった。鬱病になって、最後は全部手放さなきゃ駄目かなと。全部が嫌になって、思考回路が停止して、もう今までのやり方してたら無理だと。どうにもニッチもサッチもいかないから、頼れる人を見つけて頼るしかないと。お金に詳しい人、弁護士、不動産取引よく分かる人、そんな人たちに相談して、意見もらってどうにか生きながらえた。

 最終的には自分でジャッジしなきゃいけないけど「あれ?このやり方楽じゃん」って思うようになって。自分で決断できる普通の状態に戻れたってことは、このやり方でスタッフ達とも一緒に仕事できるようになったら、もっと楽しくなるんじゃないかって、それまでと逆の向きで考え始めたんです。

今ウチには11人ぐらいスタッフがいます。パートのおばちゃん、アルバイトのお姉ちゃん含めて、それぞれの人の適性によって得意なこと、好きなことを見つけて「こんな風にしたいんだけど、どう思う?」みたいに話をするようになったら、どんどん会社が回るようになってきた。いいアイディアが出てきて、会社の雰囲気も全然変わった。そうなると、みんなからも「こんなことやってみたい!」がどんどん出てくる。初めて分かったの。人と仕事するってこういうことなんだって。「人を巻き込む」ができなかったから、自分だけで何もかも全部抱えて鬱病になっちゃったんだと。

俺は幸いにしていま元気が出つつある。絶好調とは言えないけど、ほぼ復活かな。おかげで自分が経験したこのどん底の10年を、ネガティブじゃなくポジティブに捉えられるようになったんです。俺が「捉えたもの」を必要としてくれる人がいれば、分けてあげて、一緒にお手伝いしたい。何かやりたいけど、どうしたらいいのか分からないって人の話を聞いて、一緒に考えてあげようかなと。それが自分の一番好きなことなんだって感じてる。

オンキ:高くて痛い授業料を払いましたね。

渡邉: 金額にするとなんだかんだ5~6000万ぐらいかな。

オンキ:なかなかの学校に入りましたね。

渡邉: 確かに高い月謝です(笑) でも、その分、少しは勉強できた。今、売り上げ1億ちょっと。あんな狭い弁当屋で。ロケ弁デリバリーサイトでは、神奈川県内のお届け、結構上位らしい。それもこれも、みんな、日々頑張ってくれてるスタッフのおかげです。僕はなーんもしていないので(笑)コロナの前に破産しかけたから、借金も沢山ある。返済しながらだから正直キツイ。でもありがたいことにご注文がかなり増えてきている。3期前は4500万ぐらいの売上だったのに。

オンキ:お話を伺うと、「ついてこい!」のときには、全てが泥沼化したのに「どうすればいい?」って人に頼ったら、周りのみんなの隠れた力がどんどん湧いて、うまく回るようになった。そんな感じですかね。

渡邉: その根っこにあるのは「もう駄目だ」ってギブアップをみんなに見せた事ですね。

オンキ:弱さを開示したってことですか。

渡邉: そう。俺1人じゃどうにもならんと。

オンキ:イケイケのときは「自分の強さを見せ続けなきゃ」と思い込んでた。

渡邉: うん。社長とかって肩書きの人はマッチョになりたがる人が多いけど、マッチョな社長ほど周りが見えなくなっちゃう。昭和のおっさん達の男らしさって、なんかもう弱音吐かないでしょ。根性論で菅原文太の世界。だけど、そうじゃないんだなって。むしろ弱さを認められる事の方が強いんじゃないかって、最近思う。弱さを開示できて初めて「助けてほしい、手伝ってほしい、一緒に考えてほしい」が言える。そこがやっぱりこの10年で自分、めっちゃ変わったなと思う。

ギブアップまでの10年


オンキ:渡邉さんの「イケイケからギブアップまで」の流れを一度振り返ってもらえますか。

渡邉: 会社員やめてうお時に戻ったのが30歳の時です。「うお時さんそろそろ破産するんじゃない、やばいんじゃない」っていう話になっていて「じゃ俺もう家継いじゃうか」くらいの勢いで帰ってきた。そしたら家業はあまりにも旧態依然で。よく言えば、昔から変わってない。悪く言えば「こんなやり方じゃ、そりゃ売り上げも利益も伸びないでしょ」っていう。そこから「よしマッチョな俺を見せてやろう」と思って始めて。社長だった親父が病弱なこともあって、僕が実質、社長みたいになってイケイケで仕事したのが、40歳までの10年間ぐらい。で、40から46ぐらいまでの間、鬱なって、もうギブアップ。「マッチョでもうごめん、このままだと本当どうにもなんないから、みんな力貸してくれよ」ってなって。

オンキ:会社員だったというのは、どんな?

渡邉: とある飲食関連企業の人事採用担当だったんです。採用教育課で人を採用してました。一時、外食産業がバーッって盛り上がったけど、リーマンショック辺りで外食バブルがはじけちゃった。それで自分が採用した人間を自分がリストラしなきゃいけなくなっちゃったんです。そんな時、やっぱり残したい人間、残さなきゃいけない人間、やめてもらわなきゃいけない人間っていうのを考えなきゃいけない。当然その人の能力もあるし、立場もあるし、家族もいるだろうし、いろんな条件があるわけです。ものすごい多く人の人生が全部自分にかかってくる。すごいプレッシャーというか、ストレス、責任があって。

オンキ:想像はできます。

渡邉: 何ができるんだろう俺は、って。自分としてはこの子を育てたい。でも今の環境にいたらこの子は伸びない。だから今は切って、新しい環境に行かせてあげた方がいい。その子からしたら会社クビになっちゃう。でも、その時は確信したんです「この子はウチの会社にいるより外に出てやりたいことしたほうが絶対伸びる」って。

オンキ:生き延びられる可能性の高い方向に一歩踏み出せるようにしてあげた、その手伝いをしたと。

渡邉: それが、まわりまわって、今、自分が本当に救われたことで、逆にまたその頃の気持ちが戻ってきた。

オンキ:今、鬱から復活して上がり坂に入ってから、どのぐらいの時間が経ってますか。

渡邉: 今で3年目ぐらいかな。メンタルおかしくなるときって、必ずしも一つの出来事だけが原因じゃなくて。同時多発的な出来事が原因となって..

オンキ:糸がごちゃごちゃ絡まるみたいになりますね。

渡邉: まさにそうで。これを一つ一つ解きほぐすのを始めなきゃいけない。当時結婚して披露パーティやって、その翌週にお店出したんです。その店だけはなんとか売り上げ取れたんですけど、そっちを取るために本業の弁当の売り上げが減らざるをえなくなっちゃった。

オンキ:主客転倒ですね。

渡邉: それでもう1店舗出したら壊滅的に売り上げ落っこっちゃって。金が全然回らなくなった。鬱病になって抗鬱剤飲むようになって。2剤飲むとボーっとする。だから本当は車の運転とか絶対しちゃいけないんだけども..

オンキ:事故ったんですね。

渡邉: 1年間で2回事故って、車1台廃車にしました。結婚して幸せの絶頂から一気にズドーン。鬱の時って気持ちの整理つかないし、家族のこと、嫁さんとのこととか人に相談しづらい。嫁さんはいい子だけど、やっぱりサラリーマン一家の娘だから。会社をたたむとか、毎月の給料が入ってこないとか理解出来なくて。1番辛かったのは、破産しかけてるのに、妊活したいって言い出した。そのタイミングで。子供は彼女の夢だったし、年齢的にしょうがなかったってのもあるけど、でも、俺が「自殺しかけてる人間」なのに妊活。好きで結婚した嫁さんだったので何で理解してもらえないのかなと。でも、なんとか妊活をサポートしたい、でも全然できなくて、自己嫌悪に陥ったり。もう頭の中がゴチャゴチャで、訳がわかんない感情を整理できなかった。

オンキ:それはきつい。ベクトルが逆ですね。

渡邉: しんどかった。やっぱそれで余計、自分を追い詰めちゃった部分があって、何回か本当に自殺しかけて。よく「自殺って準備してする」とか言うけど、それないですね。もう衝動。自分で一番びっくりしたのは、風呂入って出てきてビール飲みながらテレビ見てたんですよ、ソファで。首からバスタオル巻いて、気がついたら中尾彬みたいにクネクネ巻いて締め上げてた。何やってんだ俺と。

オンキ:うわ。

渡邉: 別居して住み始めたマンションは9階建ての9階。気がついたらマンションのベランダの欄干にトレンチコートを着たまんまバットマンみたいに立ってた、とか。

オンキ:そのバットマン、月に帰れないですね

渡邉: 月に帰れなかったから、今、インタビュー受けてる(笑) 鬱病を経験してない奴に、鬱病分かってくれというのはやっぱり無理。でも、その結果しちゃった行動によって自分の信用、信頼を失った。特に嫁さんをがっかりさせちゃった。病気になっちゃったからしょうがないけど、思考低下して失敗して、親友だったり、嫁さんだったりが僕から離れちゃった。もう開き直るしかないわけです。僕がぶっ壊れてしまって、離れてっちゃった人に対しては、なんて謝っていいのか、どんな気持ちを伝えていいのか未だに分からないし、どう付き合っていいかも分からない。だけど、その人たちに、もしまた、どっかで会ったりして、俺のことを必要と思ってくれたら、俺がその人たちを逆に支えられるような人間になりたいな、と。

復活へ

出川哲郎さんのご実家「蔦金商店」さんとのコラボ海苔弁

オンキ:うお時さんが、実際どんな風に良くなっていったか教えてもらえますか

渡邉: コロナの初年度ってぼろくそに補助金いっぱい出たじゃないですか。外食もロックダウンで店閉まって。お弁当屋さんとしては、国内の食材、例えば国内産の魚を使おうとすると原価で足出ちゃうから、基本は海外で獲れた魚を使ってたんです。でも、その頃からスタッフと話すると「ボス、ウチはもう安い弁当で勝負する必要ないんじゃないですか」って意見が出てきたわけです。「私たちが作っているお弁当は他のベンダーさんより自分で食べても美味しいと思います。同じ価格で売るんだったら、お客さんにもっと響くものを社長、一緒に考えてくれませんか」って話をしてくれた。

オンキ:で、どうしました?

渡邉: それで全国回ってみた。魚探しの旅。一昨年ぐらいから富山とか長崎とか行って魚の買い付けをしに行くようになって。コロナで、外食向けの養殖の魚とか肉とかダブついちゃってるって聞いてたから。最終的に富山の魚に決めたんですけど。そこで感じたのは情報量の差。地方の経営者や役所の人たちは、自分たちが日々当たり前のように作ってる物の価値が分かってなくて「今まで通りに作って、今まで通りの流通に乗っける」ことしか知らない。もう「そういうもんだ」っていう頭になっちゃってるわけです。長い商習慣の中で、流通ルートが固定化されて、良かろうが悪かろうが「同じ種類の魚は同じ値段」なのが変えられない。例えば「ブランド鯖」「ブランド鯵」だってありますよ。でも食べてみると、やっぱり富山の方が美味しいなって魚がある。なんで美味しい魚の方が、有名ブランド魚より安いんだろうと思ったりするわけです。

オンキ:なるほど。

渡邉: ウチら弁当屋って飲食店と違って数をこなさなきゃいけない商売。だから魚を丸で買ってきておろして切り身にするような手間はかけらんない訳です。でもその代わり、自分達で流通を組むことも出来たりします。つまり水揚げされた魚を現地で買いつけて、切り身にして冷凍工場に預けて、そこから必要に応じて店舗に運ぶ、というラインだって組めちゃうわけです。でも、長崎や富山でそんなことを言う飲食店のオヤジがいなかった。実際に現地で話を聞いて、見て、食べて、その上で僕だったらこんなビジネスモデルに変える、そしたらもっと高く売れると思いますよと。だから、それを前面に出した商品作りにしたんです。

オンキ:「富山の魚を弁当に使ってます」がブランドイメージ構築になるってことですね。

渡邉: 要は既成概念にとらわれてるから、僕みたいな全く違う発想の人間が行ったときに扉が開くんですね。「こんなやり方できるんだ」と。それは僕がどん詰まりになった時に、周りの人に求めたのと同じことなんです。

オンキ:立場は逆だけど「僕が助けてもらったように、僕も助けられるぞ」になったと。

渡邉: そうそうそう。

オンキ:「背中を押されて、背中を押す人になってた」っていうことですね。

渡邉: そうそうそうそう。場合によってはお尻を蹴っ飛ばさなきゃいけないんだけど、

オンキ:同じことですけどね。

渡邉: 手が出るか足出るかの違いで。相手への思いによって「蹴り飛ばすか優しくするか」わかんないけれど。

オンキ:愛のある蹴飛ばしもありそうですね。

下町のガキとして

オンキ:渡邉さんが、どんなふうに今の自分になってきたのかの歴史を振り返ってもらえませんか?

渡邉: やっぱ俺は、所詮下町のガキなんですよ。下町にはやっぱり義理と人情みたいなものがあって、自分たちのコミュニティがちゃんとある。俺は昭和49年若葉町生まれ。商売人ばっかりの町で、今はちょっと寂れちゃったけど、ガキの頃には隣の伊勢佐木町も元気だったし、友達はほとんど商売人のせがれ・娘しかいなかった。で、みんな商売人の子供だから親が忙しいときに、誰かのとこに行けばご飯食べさせてくれるとか。夏休み、ウチが忙しくて、旅行にも連れてってくれない時に、今でも覚えてる、近所の畳屋の親父が「ター坊、借りていいか」って「つくば万博連れてってやろうと思って」って。で、実際行ったんだよね。だから何だろう、義理人情というか、人に頼まれると断れないとか、人に甘えるとか、多分そういう事が身についてる。20代のサラリーマン時代に自分のあり方にすごい悩んだんだけど「下町のガキの義理人情」な本質は多分変わってない。何が変わったかっていうと「背中を押すのか、蹴っ飛ばすのか」の違いがわかるようになったこと。つまり相手によっての対応の部分。

その人間にとって何がベストなのかなって考えた時、例えば、相手との距離感が分からないと、相手を思ってのアドバイスが単なる指示に聞こたり、命令に聞こえたりすることもあるわけです。実は下町の子ってのは、そういう分別の意識がそもそも全くない。だってみんな同じ価値観で生きてるんだから。下町エリアを離れた時に自分の言動の伝わり方が違うなって、ずっと思ってた。

小学生の頃が一番面白くて、ヤクザの事務所にロケット弾打ち込んで逃げたりとか。小学校の担任が「この子を公立に入れたら絶対に危ない。できるだけ環境を変えた方がいいです」って私立に入れられたわけです。その私立ってのが、ある意味すごい学校で、校則がない。

オンキ:いまどき求められてるタイプの学校ですね。

渡邉: しかも学校来たくなかったら来なくていいって。

オンキ:いまどき求められてますね。

渡邉:その代わり、テストで点取れなかったら学校辞めるか、転校するか留年するか自分で決めなさいと。

オンキ:自主性に任されまくってる。

渡邉: そう。下町のガキンチョが全然違う世界にぶっ込まれた。自主性があるということは、みんな個性的なやつが多いわけで。個性的ってことは、何らかのフックで引っかかりやすいわけで、合う奴は自然に結びつく。
中高一貫の6年間だから、合うやつ同士が阿吽の呼吸みたいになってくるわけです。その中で、この人が大事だ、好きだなって思ったときに、距離感の詰め方って絶対人間ってあるじゃないですか。やっぱり下町のガキ育ちだから一気にパコ!って迫ろうとする訳です。でも相手からしたら、いきなりだと恐がられることだってあるし、なんで土足で突っ込んでくるんだろうとか。

オンキ:なるほど。

渡邉: それで、さっきの「蹴っ飛ばすか、支えるか」の違い、サラリーマン時代のリストラの話に戻るけど、「ウチだけでなく、どこの会社でもちゃんとやっていける」人なのか「ウチの会社じゃないと駄目」なのか。もしくはウチにまだ残した方がいいのか、外に出て違う経験積むのがいいのか。先を見越して絵を描いて、同じ首にするのでも「ポジティブにいけるのか、ネガティブになるのか」を考えるわけです。僕が下町マインドの構造から一番変わったと思うのは、この点。まずその人にとってこれがベストだと思うことを決める。そのときは悪役になって恨まれても、いつかその意味がわかってくれるならいい、気づいてくれる日は必ず来ると信じる。自分なりにその人のことをちゃんと受け入れて一緒の立場で考えた上でなら。恨まれるかもしれないけど、いいと。これって、下町のガキにはあまりない感情なんです。環境が一緒だと皆一緒になっちゃうから。

オンキ:なんというか「バージョンアップした下町のガキ」な感じがしますね。距離の詰め方とか「いきなり、ガブっ!」じゃなくて「ちょろちょろ、カプっ」みたいな?

渡邉: そうそう(笑)。要は「最終的にその人に何ができるのかを考える」は、ある種おせっかいんなんですよ、下町ってやっぱり。お腹いっぱいなのに友達のとこ行ったら、また「食べていきなよ」って言われて、食べないわけにいかないとか。で無理しちゃうとか(笑)

オンキ:渡邉さんは結局、その畳屋のおっちゃんと同じなんですね。ちゃんと跡を継いでますね。

渡邉: そう。おせっかいとは矛盾するけど、相手と距離を感じつつ、その関係に対して何ができるんだろうって考える。仲良くなる時は、音楽の話で盛り上がる、酒飲んで盛り上がる、車の話で盛り上がる、きっかけは何でも良くて、結果どんどん距離が縮まっていく。でも若い頃みたいにすぐ近くなる必要はない。その人に何かあった時、困った時、大変な時に、俺は何か出来ることをすれば良い。それで「この子を育てたいけどこの環境にいたらこの子は伸びない。今は切り捨てて新しい環境に行かせた方がいい」を迷いなく出来るようになった。長い目で見れば、今自分がやりたいことをやって、学んだ方が絶対伸びるって。見守る事。それは好きな人・大切な人への責任、覚悟なのかも。これを学んだ気がする。

オンキ:なるほど。少しずつ変化しているけど、元からあった「下町ガキのメンタリティや哲学、道徳」が、結局渡邉さんを支えている核のような感じがしますね。

渡邉:あの若葉町って街自体が「ザ・多様性」だったっていうか。社会の「るつぼ」な街だからね。

オンキ:アレでよく生きてられるなっていう、ボトムな方々が若葉町の路上にはいらっしゃいますね。

渡邉: 確かに(笑)あの街では、みんな違ってるのが当たり前だった。逆に言うと外からの人は入りづらい。でも入ると居心地がいい。完結しちゃってるわけです、人間関係とか世界観が。

オンキ:都会なのに非常に田舎的ですよね。

渡邉: うん、そう。若葉町という環境から離れて私立の学校に入ったら、みんな神奈川県内のいろんなとこから集まるわけです。若葉町は年齢層に幅があって色んなおじさんがいた。でも学校には同世代ばかりでの幅広さになった。若葉町で学んだ事が中高時代にリセットされて、そのまま大学入って社会人になった。会社入った頃から店長とかマネージャー職とか、中間管理職的な立場が多かった。だから人をまとめなきゃいけないってときに、若いから体も動いたし、誰よりも寝ないで働いてみせた。「店長がそれだけ体張るなら文句言えません、俺もやります」みたいな。その体験があったから、もうまっすぐにマッチョを始められちゃったわけです。

オンキ:なるほど。

渡邉: すると、せっかくガキの頃から雑多で多様な街で育ててもらったのに「自分の、このやり方で分かってもらえるはず」って、思い込んで進めてた、間違いなく。それで人生こけて失敗して、今度はこっちが助けてって言わなきゃいけなくなった時に、アレ?って。

オンキ:小さいときに多様なカルチャーの中にいたのに、社会人になって「単一路線でどこまでもいける!」という思い込みで進めたら、折れちゃったと。そこからまた「多様で助け合える世界」に戻ってきた。でもそこは元の同じ場所じゃなくなって、少し高いところだった。「人との距離の取り方、関わり方が上達したぞ、俺」みたいな感じですかね。

渡邉:だから今、違う感覚の人と会うのが楽しくてしょうがない。

オンキ:もう無敵、無双な感じですね。

渡邉: うん。一番変わったのが、昔は「こいつ無理」みたいに人の好き嫌いがすごくはっきりしてた。「なんで分かってくれない?俺は間違ってない」と。特に鬱病真っ只中の時はね。でも失敗して生き残りを図る過程で、色んな考え方があることを再認識して、その多様な考えをどうやってまとめ上げるかっていう編集者的な視点になれた。違う感性があるからこそ成功できるって思えるようになった。年を取れば取るほど「違うことを楽しく感じる」ような。逆に、その違いを認められない人は成長できないし、変化に付いていけないんだろうと今は思う。

オンキ:なるほど。

渡邉: だから、支えてあげたり、蹴っ飛ばしたりして、できる限りサポートしたいし、そういう生き方を突き詰めていくことで、かつて俺が迷惑をかけちゃった人への罪滅ぼしになるのかなと。

オンキ:もうこれからメンターになれますね。

渡邉: どうだろうな。

オンキ:もうなってますね、きっと。

渡邉: 迷いは、まだある。でも以前と違うのは、白黒ハッキリさせなきゃいけない時に、ちゃんと自分の判断基準が働く。どっちを選ぶのが自分らしいのか。その自分らしさっていうのは、親とか家族とか、周りもスタッフも含めて、皆んなのために何がいいのかを基準にして物事をジャッジできるようになったこと

オンキ:お話聞いて映像が浮かびました。グルグルに巻かれた黒い毛糸の真ん中に芯があるけど、外からは見えない。それがちょっと前の渡邉さん。その黒い糸を周りから色んな人が引っ張ってほどいてくれる。糸が抜けて、中の芯だけ剥き出しになる、それが今の渡邉さん。元からあった芯は前より白く輝いて、動きも良くて活動的になってる。

渡邉: 合ってる。

オンキ:一番最初に、渡邉さんがシンプルになったと言われた、そのシンプルってどういうことなんだろうと。毛糸の黒い塊に包まれて芯が消えて無くなったみたいに思えたけれど、そんなことはなくて、元々のシンプルな芯は残っていたと。黒い糸を手放せたんだと思う。

渡邉: もっぺん立ち返られた。そんな感じだから楽なんですよ。

オンキ:楽でしょうね。「ついて来い」の人から「手伝って」の人になれて、自分の良さがどんどん出てきて。

 

サムギョプサル大作戦

オンキ:もう「誰かを助ける」を始めてますね?

渡邉: 実は今、大阪のある会社の社外取締役をやってるんです。

全国回って感じたのは、自分たちの今までのやり方しか知らない社長さんがあまりにも多いこと。同じ商売を何十年間も続けてうまくいってない会社とか、自分たちの価値が分からない、今のやり方が当たり前だと思ってる会社が。「そんなやり方してる会社、今ほとんどないですよ」みたいな。たまたま去年の夏、横浜の社長達を連れて大阪の社長の会合に参加したんです。

大阪の方は町工場の社長が多かったけど、チーム横浜は業種バラバラ。弁当屋の俺とか、リサイクル屋さんとかシステム屋さんとか色んなメンバーで。それでビジネスマッチングとなったとき、元々家族で飲食店を経営してたけど、失敗しかけたっていう人に出会った。破産する前に「このまま弟に事業を任してちゃまずい」と思って、1事業だけ抜いて独立、起業した方。その女性社長が俺と話をしたいというんで、話を聞いたんです。「私には息子がいるんです」と。その35歳くらいの息子くんの指南役、家庭教師みたいにコンサルをやってくれませんかって話が来たわけです。

で、とりあえず息子くんと会って、決算書見せてもらったら、コロナ禍の中で資金調達して大きく投資しちゃってるんですよ。新店舗開けちゃったり工場作っちゃったりとか。で、全部門赤字。もう、広げまくって全部赤。コロナのせいだと思ってたんだけど「いやそうじゃない」って女性社長も気付き始めてたタイミングだった。この会社本当潰れちゃうなって。まさに俺がピンチにはまったときと同じ状況なわけです。

オンキ:このケーススタディは、もう経て来たぞと。

渡邉: こうなったらこの会社、何とか再生させなきゃいけない。ずっと同じ仕事をしてきた人ほど自分のスタイルがあるけど、そのスタイルをスタッフにちゃんと伝えられない。相手や状況によって言うことが変わる。スタッフも「どっちが正しいんですか?」とブレブレで、どうしていいか分からなくなる。しかも女性の気の強い社長にパーって強く言われちゃうと、男どもは面倒くさくなっちゃう。

オンキ:それって、イケイケの頃の渡邉さんがやってたのと同じ事ですよね?

渡邉:まさにそういうこと。その会社のリバイバルのためにはどうするかって言ったら、もう簡単。「本気で生き残りたいんだったら、社長自身が変わらなきゃダメです。とりあえず我慢してください。どうしても何か言いたいときはまず僕に言ってください」って言って、まず社長の行動を止める、我慢させる。その上で、飲食店3店舗の赤字を何とか埋めるのが僕のメインタスクになった。その3人の店長たちのマインドを上げなきゃいけない。最初は褒めて褒めて、仲間に入って、少しずつプレッシャーをかけ始めて。「君たちの部門だけで毎月こんだけ赤字垂れ流してるんだよ」って問題意識、悩みを共有して「ディスカッションして変えていかないと、お客さんへのプレゼンス上がらないよ。やる気あんの君達?」って言えるとこまで持っていった。そこから今までこの会社がやったことないことを形にした。

1番最初に取り組んだのは、売り上げが壊滅的だった低価格のサムギョプサル屋。でも実は、2軒となりに焼肉屋も経営していて、差別化が本当に出来てなかった。両方とも「なんでもあります」みたいな。

オンキ:それカニバってますね。出店計画おかしいわ。

渡邉: そうなんですよ。イケイケだけで来ちゃってるから。それでサムギョプサルの店のリバイバルをするにあたって、お客様単価を上げていくには、と考えた。ただ単価が安いじゃなくて「このサービスでこの金額だったらいいよね、安かったよね」っていうふうに持っていこうと。ってことは、違う客層を狙い、戦略も変えないといけないよねと。そのエリアは学生が意外と多い街。なので大学生が、ちょっとしたデートとか、コンパとか、サークルとかで使ってくれる延長線上で考えて、お客さんたちが来るように店を立て直そうと考えた。でないと2軒となりの焼肉屋との違いがハッキリしない。

で、どうしたか。その飲食店3店舗に勤めてるアルバイト、スタッフ20代前半を全部呼べと。呼べる限り呼べと。で、「店をどういう風に改造したらお客さん来るようになると思う?」っていうアイディア会議を開いた。要は今までの社長のやり方の逆張り。社長から「これやれ」じゃなくて「君らどう思う?」っていう「助けて」を出したんですね。「えっ?私も意見言えるの」「言っちゃっていいの?」の会を作っちゃったんですね。

そしたら女の子たちから「外から見て何屋さんかわかんないから看板を作りたい」とか「もっとメニュー表を可愛くしてほしい」とか意見出てきて。懐かしの屋台村とかあるじゃないですか。一回りして、あれが今の子たちには可愛いんだって、あのケバケバしい色合いの雰囲気が。「だからネオンサインを増やしてほしい」とか。僕も悪ノリして「ミラーボール付けちゃったらどう思う?」って聞いたら「それ最高です!」とか言われて(笑)

最低限の経費で既存店舗を少しずついじって、メニューも絞って「1皿でいくら」だったのを「1人前いくらで2人前からご用意できますよ」って、当たり前のことなんだけど変えて。駅に貼ってある映画のポスターみたいなデカいサイズのメニューを一枚だけ作っちゃった。

オンキ:3m離れても読めるみたいな感じの?

渡邉: そうそう。「面白そう!」ってインパクトを与えて、お客さんとスタッフがジャンケンして、お客さん勝ったらファーストドリンクただになるサービスとか。

オンキ:なるほど。

渡邉: スタッフみんなで「こんな店だったら行きたい!」っていう形を一緒に考えて。その中でお客さんと触れ合えるタイミング、きっかけの仕掛けを作り始めて、それが形になって動き始めたのがこの3月で。

オンキ:まだ始めたばっかり。

渡邉: そう。4月入ってメニューとかも全部変えて、インテリアや内装デザインちょこっとだけ変えて。金額で言うと20万かかってない位の低予算。で、1日平均の売り上げが上がってきてる、着実に。

オンキ:ボトムアップですね、トップダウンじゃなくて。

渡邉: うん。次に、その2軒隣の旗艦店の焼肉屋にも手を入れ始めてる。そっちの店は、職人気質のブランドにもっていこうかと。ただ、これはその会社全体の問題だけど、キッチン経験の長いスタッフしか店長にしないんです。

オンキ:ほう。

渡邉: キッチン上がりの店長は、社長がイメージして「やれ」って言った事しか出来ない。ブランディングを考えて、こんなイメージでどう?ってビジュアル提案して「こんなふうにやろう」って言っても、今までマッチョな女性社長に締め付けられてたから、怖くて物が言えない。言っても通じないと思ってるから、自分たちからの発信は出来なくて、全てが受身になっちゃってるわけです。

隣の店が、アルバイト達から出たアイデアを形にしたのを見てるくせに、自分たちはそれに気づいてない。「お前ら本当にやる気があるの?無いんだったら俺もう、こんな遠くまで月2回来たくないよ。給料めっちゃ安いし」って言ったら、若い奴ほど危機感があるから変わってきた、っていうのが今の現状。

つまり、俺は弁当屋だけど、自分が経験してきたことを活かしながら、店のスタッフ、バイトと一緒に、みんなの気持ちを乗せて、少しずつレベルを上げていきながら、会社を変えていこうとしたんです。

後日談:結局、女社長は「我慢」しきれなくなり、渡邉さんは契約解除になったと。ただ、店長達とは今でも連絡を取り合って色々話をしているそうです)

 

キャデラックを買う。母親の夢を叶える。

ここでちょいと閑話休題。渡邉さんのお父さんとお母さんのお話を少し。

渡邉: 俺の親父は馬鹿でかいアメ車とか乗り回しちゃうようなオッサンだった。

オンキ:高度成長期で、太陽族の横浜版みたいな連中が本牧で暴れてた時代、そのど真ん中ですね。

渡邉: ど真ん中の、ど真ん中にいた人。親父は最後引きこもってた。自律神経失調症だったんだろうな「メンタルやられると、どっかしら体も壊す」を繰り返して、最後はそのストレスか、糖尿病の薬の影響なのか、若年性アルツハイマーみたいになって、69でお風呂で死んじゃった。69歳と5日しか生きてない。69歳になって親父おめでとうって言ったら5日後に死んじゃった。そのころ、俺もちょうど破産しかけて、その後処理に追われてメンタルがぶっ壊れてる頃だった。俺が家業に戻ってきた事で、親父の居場所を奪っちゃったんじゃないかと。親父と戦わなきゃいけないっていう意識もあって、追い込んじゃったのは俺じゃないかなと思うことが、今でも正直ある。でも、一番びっくりしたのは母親。あんだけ迷惑かけられて、心配させられた親父が亡くなって、あんなに泣き崩れるなんて想定してなかった。

オンキ:おふくろさんの悲しみの深さが。

渡邉: そこまでこのダメ旦那のこと愛してたのかと。子供ながら驚いた。親父は、根は本当にいい奴なんですよ。いい奴だけど、公私混同当たり前、超がつくほどのわがまま小僧みたいな。ああいう親父にはなりたくないと思ったからよけい戦ったし、親父を追い込んでしまったのは俺だったかもしれないと、まだやっぱ思ってる。

オンキ:仕方なかったと思いますよ

渡邉: そうなのかな。実は、来年7周忌。その時までにやりたいこと、買いたいものがあるんですよ。

オンキ:何買うんですか。

渡邉: キャデラック。

オンキ:同じじゃないですか、親父さんと。

渡邉: 違う、違うの。親父が一番元気で、家族が一番いい時代に乗ってた1998年製のキャデラック。

オンキ:ピンクキャデラックとかじゃない、質実なタイプ?

渡邉: お袋が歳で、そろそろ免許返納とか考えてきた今、最後の夢を見せてやろうと。お袋は、今でも頑張って一緒に会社の仕事してくれてるんだけど、親父の思い出が分かるものを最後、置いといてあげたいなと。

オンキ:渡邉家のシンボルなんですね、キャデラックが。そのタイプでも2000万円ぐらいするんですか?

渡邉: 全然安い不人気車です。100万200万で買える。ただ直すのにいくらかかるかわかんないだけ。でも、このエコが叫ばれる時代に、4.6LのV8(笑)

オンキ:環境的にも燃費的にも最低、最悪でしょ?

渡邉: 当時俺の運転でリッター5キロ走れば御の字だった。

オンキ:リッター3キロとかでしょ。ガソリン振りまきながら走るような、本当は走っちゃ駄目系。

渡邉: 世の中的にはね、超アウトでしょ。だけど、ウチの家族の中ではやっぱりベルエポック。親父がまだ元気だった頃の家族の象徴なんです。

オンキ:神棚には入らないけど、キャデラックがご本尊みたいな。

渡邉: やっぱり過去の中で何か残しておきたいもの、手元に置いておきたいものがある。大学の時に突然キャデラックがウチに来てみんなびっくりしたわけで。

オンキ:触れるものは、すごい大事ですね。

渡邉: だから来年の親父の法事までに、買ったら面白いと思ってる。

オンキ:キャデラック買ってあげたらお母さんちょっと元気になりますね。

渡邉:そうだと良いんですけどね。こないだ渋谷で仕事があって、マークシティに車停めて、商談終わって車に戻ったら、なんと親父が乗ってたのと同じ形のキャデラックの色違いが横に停まってたんですよね。

オンキ:もう、それは呼ばれてますね。

渡邉: それで、写真を何枚か撮って。次の日お袋に「昨日さ、懐かしいもの見ちゃったんだよ」って見せて。そしたらお袋が「このクルマかっこ良かったよね」って言うわけです。そもそも女子だから、車とか本当は興味ない。息子の俺も親父同様、バカ車ばっか乗ってる。「もうあんた達はしょうがないわね」みたいに思ってるわけです。親父が車を買う時、お袋に何て言ったのっていうと「お前も最近車を運転するようになって、ちっちゃい車だと事故になった時怖いから、ちょっとだけ大きい車にした」って。それで、キャデラックがウチに納車されちゃうわけですよ。そういうところは、親父、流石だと思うけどね(笑)

オンキ:粋な誤魔化しですね。それも含めて全部お母さんにとっては幸せの記憶ですね。

渡邉: 呆れたかもしれないし、何だろうと思ったかもしれないけど、本当に愛すべき夫であった自分の男の思い出があってね。写真を見せた時、すごい懐かしそうな、嬉しそうな顔してて。

オンキ:もう買ってあげよう。わかった、決定。

渡邉: 下手したらやっぱ年代がアレだから、走り出すまでにどんだけ修理代かかるやら。

オンキ:もう走らなくていいんじゃないですか?お母さん乗せて、弁当屋のスタッフに押してもらえば。「手押し車としてのキャデラック」ってね。若葉町手押し車。

渡邉:単純に喜ぶかなと思って写真撮って見せたら喜んで、5秒ぐらいなんか微妙な顔して、ちょっと横向いて「あんた買う気?」ってお袋が話を振ってきたんだ。

オンキ:その5秒間は重いですね。

渡邉:それ言われちゃったら火が付きますよこっちも。

オンキ:元々付いてたくせに、人のせいにして(笑)
 

ラストメッセージ


渡邉: でも、生きてるって面白い。会社やって、みんなを養わなきゃ、ビジネスしていかなきゃいけないから。

オンキ:手放して「俺が俺が」でなくて済むようにした事で、逆に自分らしさが取り戻せて、より自分らしく良い形で働けるようになった「しくじり先生のようで、しくじらなかった先生」っていう感じですか。

渡邉: 誰かに救ってもらったんだろうねきっと。

オンキ:もっと言うと「しくじったおかげ先生」ですね。

渡邉: うん。まだ「しくじったもの」を返してかなきゃいけないんだけど、謝らなきゃいけない人含めて。だから、俺はものすごく、どんどんシンプルになってる。

オンキ:話の頭とお尻が繋がりましたね。

渡邉:全てがシンプルだから。実は悩んじゃう人こそ、頭ん中が固まっちゃってる人が多いんじゃないかな。こっちを立てれば、こっちが立たないとか「こうはしたくないけど、しなきゃいけないんじゃないか」とか。本当はそうじゃない。自分がしたいようにやればいいんだ。自分自身の殻を自分でぶち破らない限り、人は変われない。でもそのときに、そのときに「助けて手伝って」「わからないから教えて」は、全然OKだってこと。結果的に僕は無事その自分の殻を壊すことができただけの話。振り返ってみたら、あのどん底の自分がいたおかげで、ちょっと変われた。うん。でも自分だけで変わろうと思ったとしても、きっと変われなかった気がする。

オンキ:多分、黒い糸がもっと絡まったでしょうね。

渡邉: だから最近、こういう想いを割と頻繁にブログであげるようにしてる。俺より若い次の世代、30代なんかはやっぱり、横浜で俺たちがやってきたような事をやりたいって奴が増えてきた。ありがたいことにそういう奴がだんだん集まってきて、弟分的なそいつらと飲みも行くし、話もしに行くんだけど、俺が大人に教わったことはちゃんと次世代に教えるようにするので。

オンキ:もらったバトンは渡すと。

渡邉: 俺のゴッドファーザーは鶴岡のジジイ、横浜スタジアム作っちゃった爺さんですからね。横浜らしい粋な爺様だった。カッコイイ大人を見せてもらったから。そのバトンをいつか誰かに渡さなきゃっていう責任は、ちゃんと感じてるんだ。OK、俺は若葉町で頑張るよ。

はなし終えて

この夏、とある中古車販売企業のあんまりな困った実情が
世間を騒がせました。

「トップとの同質性の強要」が、どれほど組織を歪め、腐らせるのか。
「ボトムからの多様性を楽しむ」が、どんなにしなやかな強さを生むのか。

自分の弱さを受け止めて、多くの人の力を引き出した渡邉さんの実体験、如何だったでしょうか?言うのはやさしく、行うのは難しい。でも多分、道はその先に開けるみたいです。

 



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