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『ブラックコーヒー』第三話 抗う生き方を知っても、体が追い付かんのです。

 海かいくんと別れまして、私は今次の講義がある教室へ向かっとります。海くんというのはさっきまで話していた彼のことで、彼は今日はもう講義がないらしいので帰りました。人それぞれ帰る時間が違うというのは大学特有なもんで面白いなあと思いますね。

 私は大学では心理学を学んでいるんですが、正直人の心なんて測れるもんじゃないなって思うんですよ。妙なほど納得できんし、なんでこんなこと調べるん? と言いたいもんも多いです。一周回ってみんなバカなんじゃないかなあと思ったりします。だったらなんで大学に通っているんだと言われてしまいそうですが、きっと時間がほしかったんです。それと、単に怖かったんだと思います。学生の頃が一番楽しいと、仕事は辛いと、耳が痛くなるほど聞いたんです。鼓膜なんていらんと思う日もありましたが、それはダメです。持ってるもんをいらんと投げるのは物凄く傲慢なもんです。持ってない人もいるんです、持っているならそれをしっかりと抱いていないとダメなんです。

 少し話がそれましたが、端的にいうと私は社会というもんが怖かったんだと思います。何か行ってはいけないような気がして、就活は終活と言いましたがなら就職は死なんじゃないかと本気で思う時期もありました。でも皆さん、実際はその死の中で得るもんの方が多いんですよね。いつかは結婚して、子どもができて、孫ができて、ひと時だけその死という時間から解放されて老いた体を抱きながらまた自由になるんです。そしてまた、その時期が来れば死に戻るだけなんです。なんだか、良いなあと思ったりするんですよ。結局私が何を怖がってるんかはわかりません。その頃に怖がってたもんは今では、大切な何かになっとるんかもしれませんね。

 うつ病になったことがあると言いましたが、やっぱり何かが明確に変わったというとその時かなあと思います。どうやらそういった、精神的な疾患と言えば良いんでしょうか、そんなものたちはスピリチュアルのなかでは人生の転機とか自分が歩く道を間違えとるよってことを教えてくれてるというものらしいんです。克服した身だからこそ言えるんでしょうが、なるほどなあと思います。

 それから私は、人からの評価とか頑張った結果とかそんな不安定なもんじゃなくて、自分の中で完結できる、かったい一本の誇りみたいなもんを持ちたいと思うようになったんです。その誇りに縋って生きて、縋って死にたいなんて思うんですよ。思えばうつになる前の私は、何かにならなければと必死だったような気がします。さっきも言いましたが、就職というんは私にとっては死みたいなもんで終わりだったんです。テレビなんかに映るアーティストの方々のように、自分の世界をこれでもかと見せつける何かになりたかったんです。それだけが唯一の生き方だと、本気で思ってたんです。今では随分と貧しくって傲慢だったなあと思いますが、そんな生き方しか思いつかなかったんですよ。でも、その時から辛いなあと思うことはありました。抗って生きる方法だけ知ってしまって、その方法に体が追いつかんのです。そんなこんなで私の中の何かがとんでもない爆発を起こしたんでしょうね。

 てくてくと一人ふらふらと広い廊下を進んどります。でっかい、いったい誰を想定したんかわからん扉を開いて講義のある教室に入りました。教室の中にはそれなりの数の人がいるんですが皆さんスマートフォンに夢中です。なんだか疎外されているような気がして不安になりますが、話してみれば大体の人は良い人なんです。そんな、良い人、という言い方はなんだかいやあな言い方も含んでいるような気がします。だからと言って、じゃあなんと言えばいいかという話なんですがこれもやっぱり、良い人、と呼ぶのが一番だなあと思うんです。なんだかいろいろ御託を並べて褒められるよりも、良い人、とシンプルに言われる方が気持ちいと思うんですよ。感じ方の問題ですよねえ。こういうもんがあるから心理学なんてもんはなんだかなあと思ったりするんですよ。

 因みにですが今日はまだ私が飲むブラックコーヒーには砂糖が入ります。とはいっても海くんと別れたんはついさっきのことでそんなうちに砂糖を取り除かれたらたまったもんじゃありません。こうやって、一日の中のどこかで私は私に今日飲むブラックコーヒーの味を聞くんです。この質問を自分に問いかけるだけで、私は豊かになっていくような気がするんです。この私の人生という道の上にあるもんは結局どんなもんだろうと、私が今日の終わりに飲むブラックコーヒーの味を左右する程度のものでしかないんです。

 生きてるだけで偉いよってよく言う人がいますが、私はちょっと無責任だなって思うんですよ。そんなの、生きるんは辛いことって言ってるようなもんじゃないですか。だからといって、幸せなこともあるよと無責任なことが言えんのもわかります。それに比べれば、寄り添って偉いという希望を見せてるんで、うまい言葉だなあと思います。でもね、好きじゃないんです。その言葉は、まるでその人を自分からつき離しているように感じるんです。辛いと感じてる人にすべきことは百かゼロなんかなあと思ったりします。中途半端な色だけを見せてその人がその色に焦がれてしまったらどうするんですかと思うんですよね。色のない世界の中でなんかしらの色を見つけようと、絵の具は持っていないけど色を塗れるものはないかって頑張って探してるんですよ。他人から見せられた色にだって縋りたいんですよ、それなのにその他人は自分を突き放すためにその色を見せてるんじゃないかって思っちゃうんです。これはあくまで私の主観なんで、何もその言葉を言う人が無責任だなんて客観的に見ればそんなことは思いません。その通りだなあって思うんよ。だから、難しいなあって思うんですよね。お互いが向き合ってちゃ、同じ方向は向けないんです。

 そんなこんなで講義が始まりました。周りを見るとぐっすりお眠な人からしっかりとノートまで取ってる人もいます。私はまあ、それなりです。ちょこっと真面目です。でもちょこっと不真面目です。

 講義なんて長いようであっという間に終わります、小学生の頃は四十五分を地獄のように感じていたのに今ではその倍の時間もまあ、いけます。年を取るってこういうことなんですねえ。思えば小学生の頃は太陽の光がもっとギラギラと輝いていたような気がします。今では少し褪あせてしまいましたがね。でも、悲しいとも思いません。私は確かにそのギラギラとした場所を歩いたんですから、その足跡はたとえ私がこの世を去ったとしても、変わりません。講義が終わった周りの皆さんは遊びに行こうとやっきになっている人や早く帰ろう、次の講義めんどくさいという人まで様々です。私も同意見ではあるんですが、遊びに行くというのは少しはばかられます。

 私はこの大学生という有り余った時間を遊びに使いたくないんです。遊びというのは消しゴムみたいなもんで、遊べば遊ぶほど、角が擦れて丸みを帯びて小さくなっていくような気がします。段々と褪せていって適当になるような気がするんです。だからこんな有り余った時間こそを、だらだらと怠惰に無駄にしていった先の景色は、案外綺麗なものなんじゃないかと思うんですよ。そんなことない、という人は沢山いると思います。ならそれは、遊びという簡単なものではなく、もっと、一生大切にすべき本質だと思うんですよ。どうか大切にずっと抱いていてください。

 私にとってその本質は今んところは、海くんと家族なんかなあと思います。


https://note.com/onk_konkon/n/n2b0363dda643




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