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ミッション高尾山

また山に登るんか、と日山は憂鬱になった。
ここ一年、週一ペースで行っている。
しかも人の多い土曜か日曜だ。
快晴の日ともなれば、麓から頂上に至るまでまさにお祭り状態、
大勢の人で賑わっていてまるで落ち着かない。
のんびりとした登山の雰囲気なんてぜんぜんで、テーマパークにいるようだった。
「他のとこいきませんか。」
いえばいいのだろうが、言えなかった。
高尾山に行ってほしい。週に一回。
そういう希望だからだ。

なので毎度の高尾山。
きけばあの山、登山客数世界一と言われるらしい。
休日、たくさんの人で溢れているのも頷ける。

高尾山は富士山だ。

有名なタレントを起用し、そんな宣伝文句で京王線沿線を彩ったポスターもある。
SNSでは「富士山は富士山だろ。」など言う人もいて、多少盛り上がったのもあって
当然、日山も目にしていた。

鉄道会社絡みとはいえ、東京都の端という充分すぎる好条件な山を、
ここまで力を入れて、宣伝する必要がいったいどこにあるのか。
考えただけで、なにか強大な広告代理店臭がしていけ好かない。
おまけに日山は奈良県出身だから、山なんて見慣れている。
若草山に金剛山、葛城山、二上山、大峰山・・・・・
とにかく山に囲まれ山しかなくてうんざりするから東京に出てきたのだ。
なのに毎週一度の高尾山だ。
とはいえ、これも仕事だ。
移動支援というやつだ。
訪問介護員、いわゆるホームヘルパーとして日山は介護事業所、
トマトサンデーで働いている。

移動支援は1人で出かけるのが困難な利用者に対して、
ヘルパーが外出支援をする行政サービスで、障害者認定を受けた本人、またはその家族が地域の支援センターを通じて申し込む事ができる。
区によってその内容に多少の差異はあるものの、概ねヘルパーの役割は車椅子をおしたり、車椅子利用者でなければ付き添って買い物などの手伝いをする、といったものだった。
「簡単な仕事ですよ。」
よく行く店の親父にいつもそう言って、日山は笑った。
何となく、そのまま地元で社会人になるのが嫌で若い頃、東京に出てきた。
何か人より秀でたものがあるわけでもなく、色んな職を転々としたがどれも長続きせず、高齢化社会真っ盛りの日本で食いっぱぐれはしないだろう、と老人ホームで働き出したのが30歳で40歳近くになって、同僚職員の池崎まりがおこした介護事業所、
その名もトマトサンデーに誘われ、働く事になった。

その時はさすがに日山も、介護を10年やってそれなりに認められたように感じて嬉しかったのを憶えている。
おかげでいまだに独身の身の上でも、そこそこ楽しくやれているのだがこうして人に仕事の話しをするたび、自嘲気味になる癖だけはぬけないでいた。
とはいえ、確かにこの週一回の高尾山への移動支援に限っていえば、
仕事というにはあまりにも張り合いがない。
「簡単って事は無いんじゃない?お金貰ってんだから。」
おそらく年齢的にも自分の父親と変わらないだろう店の主人に、そう言われるとバツがわるくて日山は、苦笑いするしかなかった。

利用者の永井太は38歳、自閉症だ。
同居している両親二人とも介護サービスを受けていいくらいの年齢で、年を負うごとに成長する息子の太に年々、手が回らなくなっていた。
一応、太には少し年の離れた兄やすぐ下に妹もいるが、成人し独立したのでめったに家に帰ってこない。そうなるとあまり頼りにする事もできず、両親はせめて土曜・日曜休みの日に一緒に出かけてくれる人がいれば、と区の移動支援を利用する事にした。

事業所からその話しをふられた時、日山は友達も少なく彼女だっていない身の上にちょうど良い案件だ、とすぐに飛びついた。
ただ遊びに行くだけでお金になるなんて、楽なもんや。
呑気に構えていたのに、いざこうして毎週行くようになると楽しかったのは最初の数回だけで、1年もたたないうちに彼と一緒に行く高尾山が憂鬱になってしまった。
何しろいつまでたっても太の事がよくわからない。
電車に乗るといつも前後左右に身体を揺らし「高尾山いく。」「ごはん食べる。」
と呟いている。
かと思うと突然、奇声をあげガツン、と自ら窓ガラスに頭をぶつけるので
慌てて日山が、周囲の人に頭を下げる。そんな事がしょっちゅうだった。
本人に「やめて。」と言えば
「ごめんなさい。」
すぐ謝りはするが、しばらくすればまた同じ事をする。
無理に身体を抑え止めようとすると、興奮して手がつけられなくなる時もあったので、
いっそ何もしないでいたら降りるまで何度もやっていたのでまいった。

なのでいつしか車内で日山は、太とはなるべく目につく範囲ぎりぎりの距離にいて、
一見すると他人と言えなくもない、実に絶妙な位置に立つようになった。
それでも太が自らこちらへ近寄って
「ハグして。」
と声をかけてくる時があってそうするともう観念して、
しぶしぶその身体をひきよせる。
そして、どうか騒がないでくれと祈りをこめ、おでこだけくっつける。
電車内でおじさん同士、抱き合っているのが必ずしも悪い事とは思わないが
堂々とするのも変だからそうやって控えめにかえすのだけど、
果たしてそれで太の気がすめばまだいい方で、
むしろもっと過剰なハグを求めてくる時もあった。
「しつこいよ!」
結局、日山がキツく言うとようやくおさまるが、これはなんとも後味が良くない。
今どきはどこで誰が見ているのかもわからない世の中だ。
切り取りしだいでどうにでも取られてしまう。
まかり間違ってSNSで拡散なんてされたらたまらない。
想像をするだけで疲れてくる。

そんなんでえぇんか?

せめて太といる時間が少しでも有意義になればと、何かしらの糸口を求めて自閉症関連の本にいくつか目を通した事もあったけれど、わかったのは自閉症も人によって様々、というごくありきたりな事だけでそれ以上、調べる気力がでなくなってしまいあっさり諦めてしまった。
だからやっぱり、日山の中で太はわからないままだ。
落ちつきがなく、ただぶつぶつと独り言を繰り返す人。
そういう印象しかない。

とはいえこの移動支援。
本を読むのが唯一の楽しみ、そんな日山にとっては都合が良い面がある。
二人で自宅から駅に向かって歩いてる時以外、ひとたび電車に乗ってしまえば後はだいたい読書をしていればなんとかなるからだ。
高尾山口の駅まで、特に太が落ち着いている時なんてかなり集中して読む事ができる。
言ってしまえば自閉症関連の本だって、その時にかなり捗ったのだ。
しかも駅についたら着いたでそこから絶対にケーブルカーに乗りたがる太だから、
なんならそこも読書の時間になっていた。
本人は一点を見つめ
「おそば、おそば食べる。」
降りた後のお昼ごはんで頭が1杯で、
何を言っても「おそば食べる。」しか返してこないから
よぅしこうなったら、とばかり日山も調子にのってひたすら本を読み続けた。
おかげで大好きな池波正太郎、鬼平犯科帳も全巻読破してしまった。
このペースでいけば剣客商売、藤枝梅安シリーズ全制覇も夢じゃない。
これが仕事でえぇんかな、、、
たまによぎる良心らしきものを振り払い週末になれば日山は太と高尾山に登り、
本を読む人になる。

今日は朝から良い天気だった。
日曜だし、きっと高尾山はたくさんの人だ。
これから必ず起こるであろう混雑を覚悟しながら、
太の家に行き2人で最寄り駅から京王井の頭線に乗った。
始めはまだそれほどではなかったのに、乗り換えのために降りた明大前駅のホームは
朝9時でもうすでに、人がいっぱいでちらほら見かけただけでも、いかにも登山なファッションに身を固めた何組かのカップルの姿が目につくほどだった。

それだけで気が滅入りながら一本目にきた各駅停車をやり過ごして、
2本目の高尾山口行き特急にのると案の定、ホームにいた殆どが乗ってきて車内がすぐに人で溢れていく。
「高尾山、高尾山行く〜」
太は日山の真横にぴったり寄り添って、
半分くらい入ってるコーラのペットボトルをふっている。
そばに居た学生が一瞬、訝しげな顔をしてさっと目をそらしたのがわかった。

この状況で、大きな声で叫ばれてはたまらない、と日山は太の耳元に口をよせ
「静かにね。」と一応、つたえると
「は〜い。」
素直にこたえてくれたものの、おとなしくするかどうかは太のみぞ知る。
しかもこう混雑していると、距離をとって他人のフリを決め込むわけにもいかないので、日山はわざとらしいくらい文庫本を持つ手を近くによせ、
まるで顔を隠すように読みはじめた。
しばらくは太がいつ声をあげるか、その事ばかり気になって、
字を追っていてもまったく内容が頭に入ってこなかったが、
幸い今日はいつもより大人しく
「高尾山行く〜」
を静かに繰り返すだけだったので終点の高尾山口駅までの間、気づけばゆっくり
「真田太平記4」を読めてしまった。
「やればできるやん。」
頭を優しくなでると、子供扱いされたとでも思ったのか、
太が顔をしかめたので、なんでやねん、と笑う。
着いた電車がうようよと人を吐き出し、瞬く間にホームが人で溢れていくのにまるで意に返さないで太は、
人と人の隙間を強引にすり抜けながら
「おしっこ、おしっこ〜」
危なっかしいほどの猛スピードで一気に階段を駆けていく。
降りてすぐ脇にあるトイレはすでに長蛇の列で、さすがにそれ以上は進めない太が大人しく並んでくれたおかげで、ようやく日山も追いついた。
なんでこう、どこもお祭り状態やねん。
別に尿意は無かったが、あまりに人が多くて外で待つのも厄介なので、一緒にすませる事にした。
用を足して、2人で改札をでると
もうこれで帰ってもえぇんちゃうか、
というくらい日山は、ぐったりしていた。
「ケーブルカーのる、ケーブルカー」
休む間も惜しい太は小走りで歩きだす。
「ちょっ、もう行くの?」
売店や温泉のある駅前広場をすり抜け、先を急ぐその背中を見失わないように日山も慌ててついていく。
道中にあるいかにもな土産物屋や、今風のお洒落カフェには見向きすらしないで、
ひたすらまっすぐ進む太はケーブルカー乗り場、その名も清滝駅を目指しているのだ。
頂上までの道はたくさんあるのに、のぼりもくだりもケーブルカーしか利用しないから日山もまるで、他の行き方を知らない。
なのでいつも、山登りをしているというよりミッションをクリアする感覚に近かった。
駅から頂上を目指し、つけばお昼ご飯を食べて帰る。
行く、着く、行く、着く·····
まさにそんな感じの。
何が楽しいのかわからないがそれはきっと本人も同じだろうと思う。
きっと山にきてやりたい事なんて特に無いのだ。
見れば見るほど、付き合えば付き合うほど、日山にはそりゃもう潔いくらい、、、
太がそう見えていた。

······まぁ別にえぇよね。

えぇけどこう、せっかくやから
登山の楽しみみたいなの味わいたくないんか、ていうかそう思うのが普通ちゃうんか。
じゃないとなんで高尾山なんや。
こうして、毎回来る以上それなりに、拘る理由がほしいやん。
それとも何か?
ただそこに、山があるから登るんか?
それはそれで、、、誰かの言葉やろけど、
おまけに太、キミ本人が言ってるわけじゃ
無いけど、、カッコえぇなぁ!
考えれば考えるほどやけくそな気分になってくる。

とにかく人が多いねん。

予想していた事とはいえ、見るとケーブルカー乗り場、清滝駅の券売機前には鈴なりの列ができている。
ここは混んでるから、ほな歩いて行こか。
と誰か一人でも思ってほしい所だ。
列に並ぶ不特定多数の登山客をあくまで控え目な視線、
けれどキツく睨めつけて日山は太を連れて最後尾に並んだ。
太が背負ったリュックのポケットにある、障害者手帳と財布を取り出していると
意外にもはやく順番がきたので、ほっとする。
窓口で「障割で。」
と手帳を見せながら2人分の往復料金を支払う。
太といると障害者割引がきくのでここに限らず、だいたいの公共交通機関を半額で利用する事ができる。
日本という国はなんだかんだいって、こういう福祉系の支援サービスが充実している、といつも思う。
正直、少しやり過ぎじゃないかという気がしないでもないが、
自分もその恩恵に預かって仕事をしているので、何も言えない。
それにいざ、当事者になったなら利用できるものは全部利用するに決まっている。
まったく、有り難い制度なのだ。

「おそば、おそば食べる。」
ぎゅうぎゅう詰めのケーブルカーに乗りこんだとたん、昼食の事を考える太。
日山は黙って文庫本を広げた。
「高尾山にはたくさんの花が咲いています」
動きだした満員の車内で、活き活きとしたアナウンスが響いている。
「おそば、おそば食べる。」
まるで張り合うように、大きな声でこわれたみたいに太が繰り返しはじめた。
日山は耳元で「静かに。」とささやくが、対して変わらず「おそば食べる。」を叫んでいるのでほどほどで、読書に切り替える。
今、草の者お江が山中利房のアジトに侵入せんとする、ちょうど良い所なのだ。
どうせケーブルカーに乗っている時間はそんなにながくない、気にしないでいこう。

····で。
頂上着いたらいつもの蕎麦屋か。
不味くはないが特別美味しいとも感じない、あの味をふいに思いだしてため息がでた。
太と同じく自分だってもうお昼ご飯の事を考えているのだが、たった今日山の頭を支配して揺るぎないのは、わざとらしいぐらいに光る黄身が真ん中に輝く、一番安いお蕎麦月見のみだった。

日山は思った。
やつにはとっくに飽きている。
確かに、高尾山といえば蕎麦、だ。
だけどそれも、あちこちにはってある京王線のポスターで勝手に根付いたイメージに決まっている。
どうせ蕎麦粉は外国産だろう。
山の水は美味しいから。
それくらいの理由づけで盛り上げたら、
誰もが素直に乗っかた。 
およそそんなところだと思う。

太も特別蕎麦が好きなわけじゃなくて
高尾山にくれば蕎麦しかない、と刷り込まれてるだけや。

そんな事を考える日山だってもう40歳で、世の多くの同世代がそうであるように
順調に、蕎麦もなかなか悪くないと思える人になっていた。
現にお酒を飲んだ後の深夜に、決まって食べていた油っこいラーメンから一転、
最近は立ち食いの蕎麦屋に入るくらいなのだ。
ただ、そんな時以外はあまり好んで食べようとは思わない。
どちらかといえばうどん、うどんよりはラーメン、
付け加えるならパスタの方が好きだった。
そうやってつい考えこんでるうちに車内アナウンスはとっくにやんで太の
「おそば食べる〜」
声だけが響きわたるケーブルカーが
山の中腹、高尾山駅に到着した。

たくさんの人がぞろぞろと、ホームと一体化した駅の階段を上がっていく。
今日はまた特別、人が多いので進むだけでも大変だ。
前をいく太とはぐれないよう、リュックを背負った背中をキッと見据え、目をはなさないで日山は、やっぱ天ぷら蕎麦にしてみよう。と決めた。
何しろ移動支援でかかる諸経費は全て利用者持ちなのであまり贅沢ができない。
それでもたまにはいいやろう、とこの際開き直る。
そうしてホームをぬけ、ようやく広くなったところで視界が開けた。
いくらか人も散らばっていき随分、歩きやすくなる。
それでもやはり数は多いのだろう、すぐ左に見える土産物屋、
そして右奥に続くトイレもそこそこ賑わっているから驚いてしまう。
当然、太はなんの躊躇いもなく隙間をぬって早足でほいほいと進んでいく。
「ちょ、待って。」
日山も見失わないよう必死だ。
「おそば、おそば食べる〜。」
つぶやくその背中のリュックに手をのばし掴んで引き寄せると
「太!もう少しゆっくり行こう。」
声をかけた。
ようやくスピードが落ちたのでほっとして、リュックから手を離すと日山は太の横に並んで2人のんびり、山道を歩いていく。

ここから先は広く緩い傾斜がしばらく続く。
実はもう一方に、神社に入る長い石段があるのだが太は絶対に行きたがらない。
日山も同じ気持ちだった。
坂の方が楽でいい。
時折ふく風に心地良さを覚え、
遠くの方で囀る鳥の声に耳をすませば
「山や。」
いつも思った。
なんと言ってもカラスや鳩じゃない、別の鳥がいる。当然、何かはしらない。
カケカケカケカケ·····
甲高い、そんな風に聞こえるなぁ、、どこにおる?
「蕎麦食べる〜。」
カケカケカケカケ.....
「蕎麦食べる〜。」
カケカケカケカケ·····
お昼ご飯をつぶやく太を横目に何気なく視線を彷徨わせていると、
柔らかく風にはためく、赤い幟が目に入った。
ちょうど坂が一旦終わる、見晴らしのいい場所に出たあたりだ。
ラーメン、と墨のような筆致で書いてある。

その軒先では土産物や登山グッズが、
かなり広いスペースをとって売られている。
ちょっと大きな一軒家みたいな佇まいだ。
入り口であるガラス張りの引き戸には幟と同じ、ラーメンと書いた暖簾がかかっていてそのすぐ側では、串にさした団子が、大きな壺の口にそって丸く輪になって売られていた。
なんとも商魂逞しさ溢れる、店構えだ。
心なしか、店先にたち団子をアピールする若い店員の顔つきも凛々しくみえる。
「蕎麦、じゃなくてラーメンか。」
実はここいつも目にはしていたのに、とりあえず頂上で蕎麦を食べる、という事しか
頭になかったのと、あまりに土産物屋然としすぎている見た目のせいでこれまで何気なく通りすぎていた店だった。

ただそうはいっても確かに。
高尾山のある東京、八王子は一応ラーメンも推している。
その名の通り八王子ラーメンとして一部には知られていて、
醤油ベースのスープに細かく刻んだ玉ねぎをのせているのが特徴だ。
日山もこれまで市内では何度か食べた事があった。
はっきり言って特別素晴らしい味というのでもないけれど、
刻んだ玉ねぎの食感はなかなかどうして、スープにあうので好きな方だった。
「ラーメンにしようか。」
時間は11時くらいで頂上に着くまでもまだある。お昼ご飯には、少し早い。
なので別に太が嫌なら蕎麦でいいか、とダメ元で言ってみたら割とあっさり
「ラーメン、ラーメン食べる。」
と切り替えてくれたので
「話しわかるやんか。」
でかした、とばかりくしゃくしゃっとその頭を撫でた。

太と一緒にまっすぐ店へむかい、入口の引き戸をあけるといきなり
「いらっしゃいませ。蕎麦じゃなくてラーメンですけどいいですか?」
と女性の店員さんが真剣な顔で聞いてきた。
高尾山ではよほど蕎麦に市民権があるのだろう。
「大丈夫ですよ。」
にこやかに返して店内をうかがうとゆったりしていて、それなりに広い。
いくつかテーブルを挟んで、正面にはテラス席まであり、山の景色を堪能しながら食べられるようになっているみたいだった。
それでもやはり蕎麦派が多いのか、昼時だというのに店はさほどお客さんがなく、
「こちらへどうぞ。」
言われるまま、一番近い手前の席に、太と向い合せでこしかける。
日山がさっそくメニューに目を落とすと、実にあっさりしたものでラーメンは醤油ラーメン·自然薯ラーメン2種類しかなかった。
後はポテトや唐揚げといったビールのつまみだ。あっさりしていて気持ちいい。
自然薯をラーメンに使うなんて珍しいと思い、迷いなくそっちを注文する。
「ラーメン、ラーメン。」
着いたときから蕎麦なんて忘れてそう繰り返している太だが、彼は汁物を食べる時には、熱いのが嫌なのか必ずといっていいほど水をかけるのでならば結局、ここで何を頼んでも一緒だろうからと、普通の醤油ラーメンを頼んでおいた。

待っている間も落ち着かない太は日山の目の前でお冷を一息で飲み干して
「みず。みず〜。」
とさっそく二杯目を所望している。
この調子ではラーメンが来るまでに何杯飲むかわからない。
「おまたせしました〜。じねんと、しょうゆラーメンです。」
呆れていたら割とすぐ、運ばれてきたそれをまじまじと眺める。
日山の方には半分にきった味たまご、焼豚の他にまるでカップのアイスクリームみたい、まん丸の自然薯がのってあった。
まずはそのまま刻んだ玉ねぎがたっぷり入ったスープだけを味わい、
軽く麺をすすったら自然薯に箸をいれ、まぜてみる。
さっそく口に運ぶ。これは、いける。

それほど味に変化があるわけじゃないけれどスープに混じる粘り気が小気味よくて
日山はすっかり気にいってしまった。
「いただきま〜す。」
元気すぎる程、大きな声で両手をあわせた太の方はといえば案の定、
いきなり水をぶっかけている。
そして、ずるるる、、漫画みたいな音をたて麺をすすり口の中いっぱいに頬張ると、
ぐちょぐちょ噛んだまま丼を持ち上げスープをぐぐぐっと飲みこんだ。
まるで数日、何も食べていないみたいな感じの食べ方で、味わうというよりも流し込んでいる、といった方がいい。
見た目がとっくにおっさんなので、
お世辞にも見ていて気持ち良いものじゃなかった。
ものの数分、一瞬で味玉、チャーシュー、麺がなくなり「ごちさうさまー。」ときた。
でもまだ太の丼には、水でかさ増しされた醤油スープが波々と残っていて
そこへ追加の水をさらにぶっかけると、飲み残していた日山のお冷までとって更に継ぎ足したのでスープはいよいよ、丼のふちぎりぎりに増えてしまった。
表面張力、その言葉がぴったりなくらい今にも、こぼれそうだ。
この後、太がやる事の予想がついているだけに日山は息をのんだ。
「いっただきまぁす〜。」
高らかに宣言し丼に口をつけると、ずずずずー。
店中に響きわたる音をたて太は一気にすすりはじめた。
「あーあ。」
はっきり声にだし日山は、頭を抱える。
さっきごちそうさま、言うてたやんけ。
なんやねんなほんま···
このままスープすすり妖怪と化した太をずっと見ていても仕方ない。
とりあえず先に会計を済ませておこうと思い、伝票を手にするとあきれたように
入口付近のレジに向かった。
「2200円でーす。」
太の母から預かった財布からお金を出す。
その後ろをいつの間に席をたったのか
「ケーブルカー、ケーブルカー。」
物凄い早さの太が通りすぎていった。
「あ。待って!」
慌てておつりを受け取り、席に置きっぱなしにした自分の荷物を掴んで日山も猛スピードで店をとびだした。
けれど外には相変わらずたくさんの人がいて、視界はすぐに遮られてしまう。
太の姿はまるでみえなくなっていた。

見失った?
、、、ぞっとした。
どこいったんや、、ほんま。
うかがうようにあたりを見渡し、首をきょろきょろ彷徨わせながら
頂上への道をしばらく進むが、やはりいそうにない。
というか人が多すぎて、容易に見分けられないのだ。
とりあえず、深呼吸しよ、しんこきゅう。
落ち着こうとすればするほど気がせいて、どんどん焦ってくる。
口の中がかわいてどうしようもない。

これ、もし遭難してたらエラい事件になるで···
悪い想像をしてしまい、一気に身体中から汗が吹き出す。
すぐにでも、逃げ出したくなってきた。
山に取り残された太の顔が浮かぶ。
それはいつもとまるで変わらない、自分の状況がわかっているのかいないのか、
ただすぐその先の予定だけをつぶやき続ける、あの顔だった。
くそぅ···あいつ、ほんま。
頭の中の太がコーラのペットボトルを振って
何かぶつぶつと繰り返している。
あれ、、ひょっとして。
おもむろに日山は踵を返して、山を下っていった。
そういえば店を出る時、太が
「ケーブルカー」と繰り返していたのを思いだしたのだった。

そもそもケーブルカーは、頂上までは繋がっていない。
さっき降りた高尾山口駅よりここから先は、歩いてじゃないと行けないわけで、
言葉通りケーブルカー方面に向かうとしたら太は、山を下っていったはずだ。
日山は、彼の姿を見過ごさないように周囲に目をくばりながら慎重に坂を降りていった。どうか自分の考え通りであってくれ、と強く思った。
果たして、そうだった。
ケーブルカー乗り場の前、少し広くなっているスペースで柵にもたれ、
しゃがみ込んだ太が一点をみつめ
「ケーブルカー、ケーブルカー乗る。」
と繰り返している姿が見えて、日山は心底ほっとした。

「ふとしー!探したよ。先にいくなよ。」
そう言ってこちらに目をやるその顔を見たとたん、
散々心配させられた事に急に腹が立ち、
「バカッ!」
声を荒げ、キツくその肩を小突いてしまう。
おそらく離れていた時間は5分と経っていなかったろう。
だが日山が感じた疲労は、それ以上だったのだ。
気がおさまらずそのまま、当て付けるように太の首へ腕をまわすとグリグリと頭を突き合わせた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
さすがに本人も悪いと思っているのだろう。何度も謝って
「先に行かない。先に行かない。」
と繰り返している。
肩を落とし、しょげているのでさすがに申し訳なくなって日山が
「もういいよ。」
と言うと、様子を伺うように太はぼそぼそと小声で
「ごめんなさい。」
と言いながらゆっくり歩をすすめ、
ケーブルカー乗り場、高尾山口駅の方へ向かい、坂を下っていく。
「もう帰んの?上まで行かなくていいの?」
日山も後をおう。
なにしろ高尾山には何度もきている。
太だってもう毎回、頂上まで行きたくないのかもしれない。
とはいえ一応、帰宅時間が16時だから今から降りて帰るとなると
かなり時間に余裕ができてしまうので、まっすぐ帰るわけにも行かない。
どうしよう、しばし考え日山はひとまず下まで行く事にした。
どうせやったらいつも通りすぎるだけのカフェみたいなとこで休んでいくか。

いっぺん行ってみたかったんや。
太もそれくらい付き合ってくれてええやろう。僕がおごったるわ。
そう決め込んで、ケーブルカーに乗る事にした。
出発時間ギリギリだったので車内はまたもや満員だった。
「先に行くなよ。先に行くなよ。」
ぎゅう詰めの中で、太が言っている。
呆れて日山は
「もういいよ。今度から気をつけて。」
優しく背中をさすってやった。
丸めた太の肩ごし、もたれかかる窓の外に薄紫の小さい花が咲いているのが見えた。
太が見つかった安心感のせいか、日山にはそれがとても綺麗に見えた。
「すみれ、シャガ、ヤマルリソウ、この季節は高尾山を飾る花がたくさんあります。」
何度も聞いているはずの車内アナウンスが新鮮にひびく。
名前を言われてもどれがどれかはまるでわからんけど、えぇもんやな。
「電車のる、帰る。」
眉間に皺を寄せた太が片手に持ったペットボトルを振っている。
「ほら。色んな花が咲いてる。」
その肩をたたき外を指差すとちらり、
見やった太が
「はな、はな〜。」
と繰り返したけれど、眉間に皺はそのままですぐに視線も
ペットボトルへ戻ってしまった。
「相変わらず情緒も何もないなぁ」
つぶやいたそばからそれは自分も一緒だったと、日山は思う。
せっかく来てんねんから今度からはもう少し景色を楽しんでみるか。
照れ隠しに、太をぐっとひきよせ
「そうそう。花、はぁな〜。」
彼の口調を真似して言うと
「はな、はぁな〜。」
彼も真似して言った。

「多分、自分で帰れましたよ。」
あわや遭難、その顛末を伝え頭を下げると、
太の両親はまるで何ともない事のようにあっさり言った。
一歩間違えれば大惨事だっただけに相当、キツく言われるのを覚悟していたのに
なんと笑みまでうかべている。
「何しろ高尾山は小さい頃から何度も行ってて、彼には庭みたいなものですから。」
らしい。
両親とも山登りが好きなので、幼い太を連れてよく一緒に出かけていたのだそうだ。
「そしたらすっかり慣れちゃって。全部のコースを把握してます。」
ちょっと自慢気に笑った。
「はぁ。そうなんですか····」
気の抜けたような顔の日山を玄関先に残して、当の太といえば靴を脱ぐなりとっくに、
2階の自室へかけていき居なくなっていた。
「こら、日山さんにさようなら言って。」
階段からお母さんが呼びかけるのを
「いや、大丈夫です。僕はこれで失礼します。ほんと、すみませんでした。」
大袈裟に両手をふりつつ、日山は後退りで永井家を後にした。

なんで高尾山やったんか。
ずっとひっかかっていた事がわかったような気がした。
なりは立派な38歳おじさんの太でも
両親にとってはいくつになっても可愛い子供、ただそれだけの事だったのだろう。
なにしろ、太の子供っぷりは筋金入りだ。
高尾山には、両親には、そんな家族の思い出がきっとたくさん詰まっている。
そしてまだそれは、全然色褪せていない。

だから今もできるなら両親は、
自分たちが一緒に高尾山へ行きたい。
だけどやっぱりもう無理なのだ。
そう結論づけるまで2人は様々な葛藤をして悩んで、ようやくこうして誰か他の人にお願いする、という気持ちに至ったのだろう。
確か事業所からそういう話も聞いていたはずなのに、日山はただ何となくそういうもんか、と軽く考えていただけだった。
えぇ家族やな。
太がちょっと、羨ましくなった。

「高尾山帰り?」
店に入るなり主人は、いらっしゃい、よりも先にそう聞いた。
開店間際で、他に客もいない店内は2つあるテーブル席の所がまだ薄暗く、
主人のいる厨房側にしか、電気がついていない。
言葉にせず軽く頷き日山は、入ってすぐ手前のカウンター席に腰かけ
「ビールと、、、なんか適当に。」
主人からおしぼりを受け取りながら言う。

「今日は、なんも無いよ。最近、忙しくて全然行ってなくて。」
そう答える主人の手元を覗き見るともう、まな板にはぬめりと光る鯵がのっていた。
「けんそんです。」
日山と目があい、破顔した主人がおどけるように言って
「これには日本酒が欲しいとこだけどねぇ。」
リズミカルな包丁捌きで、ささっとなめろうへかえてくれた。
お店自慢の特製だれが混ぜ込まれていて、中々余所には無い味で日山も好きだった。
さっそくすぐ運ばれてきた瓶ビールより前に、一口食べる。
期待通りの旨さで、続けてどんどんいってしまいそうになる。
日山は慌ててグラスにビールを注ぐと、まずは一息で飲んだ。
「人の気持ちってどうやったらわかるんですか?」
「なに急に?」
色々と段取りがあるのだろう、厨房の中で動き回っている主人は、つっけんどんな物言いだ。けれど、冷たい感じはない。
「いや、こうやって僕が好きなものとかすぐ出てくるんで。」

日山は至って真面目な口調で、
すでにあと一口となってしまったなめろうを味わいながら続けた。
「僕の仕事も接客みたいなもんだから、接客のプロの意見をぜひとも、と思って。」
パリッと音がしそうなほどのりのきいた布巾を四つ折りにして、たっぷり入れたたらいの水に浸してから絞る。
その腕に、鮮やかな青い血管を浮かばせながら主人が口をひらいた。
「そういう事か。だったらこれはもう身も蓋もないけど、特に無い。」
本当に身も蓋もなかった。
おかげで、飲みこみかけたビールが喉にひっかかって日山は、むせそうになる。
「そんなんで20年でしたっけ?お店って続けられるもんなんですか。」
「それはたまたま。運ですよ。
接客は人の気持ちを読むっていうか、掛け合いだからさ。
相手次第で変わるのにコツなんて無いよ。」
一通りの準備を終えたらしい主人がそう言ったはしから、店内の電気を全部つけたので
一気に店が明るくなった。

だったらなお聞いてみたい事がある、とばかりに日山は言った。
「何考えてるのか、わからん客っています?」
「飲み屋はそんな人ばっかりじゃないの?
よそは知らんけど、うちはそうよ。」
しまった、みたいな顔をして
「これは、言っちゃいけなかったかな。」
わざとらしく顔を歪ませ笑ったので主人がふざけているのか本気なのか、まったくわからない。おそらく日山もそこに含まれているのかもしれない。
「ははは。」
変なこと聞いてもたかな。
乾いた笑いをかえすしかなくてこうなったらもうここで晩飯食べて帰ろう、とお品書きに目を通す。家で一人、本を読みながら食べるのも嫌いじゃないが、明日は休みだ。
「マスターも一杯どうぞ。」
煮込み定食を注文した後、そう声をかけた。
「有難う、いただきます。
じゃ1個だけ、とっときの教えちゃおかな。」
すでに準備していたグラスをかかげ、破顔した主人がそのまま、ビールをうまそうに飲み干した。
「矢印をさ、外に向けるのよ。」
「矢印···ですか?」
「心の矢印。内にばっか向けてると外が見えないでしょ。だから店に入ると意識して、外に向けるようにしてる。」
「そういうもんですか。」
「そういうもんじゃないかな。」
言われてみればそういうもん、な気もする。日山はもっと飲みたくなって追加で一本、
瓶ビールを頼んだ。

今日はまた朝から結構な雨で、
長靴を履かないと、いけないくらいだった。
ここまでひどいと高尾山も、さすがに空いているやろう。
そう思って太の家に行ったら
「こんな天気だし、水族館にしようと思うんです。」
と母親がいった。
そんなパターンもあるのか。
すっかり高尾山だと思っていたから拍子抜けしたが、別に残念というわけでもない。
ひょっとしたらそこもまたよく太と行ってた場所なのかもしれない。
「そうですね、雨ですもんね。」
素直に行き先変更となった。
乗る電車がいつもの京王線から小田急線になったのもあり、日山もちょっと気分を変えてみようと、今回は本を開かず積極的に太に話しかけてみた。
とはいえやっぱり、何をいっても鸚鵡返しの一方通行でむしろ太からハグを求められる回数がやたら多くなってしまうだけだったので結局、新宿で乗り換えてからは本人と少し距離を置きつつ本を読む、といういつものスタイルに戻ってしまった。

水族館でも太は相変わらずで、
館内をすごいスピードで動きまわり
「帰る、帰る。」と出たがったからそれを引き留めるのに精一杯で、1時間もしないで外に出てグッズ売り場やレストランで時間をつぶすすしかなくて終止落ち着かず、そんな彼を何かと宥めして終わってみれば、高尾山の時とさして変わらない印象の移動支援だった。
「楽しかった?」
家までの帰り道、聞いてみると
「楽しかった〜。」
と、鸚鵡返しの太に人というのはそう簡単に理解できるもんやない、と言われているかのように感じて、日山はむなしく空をあおいだ。
朝からあんなに激しく降っていた雨はいつの間にかすっかりやんでいて、はいていた長靴をすぐにでも脱ぎたくなった。

太と別れ、いつもの店に顔を出すと
「お。まさか今日も高尾山?」
「いや、今日は水族館です品川の。」
こたえて、手前の席へ腰掛ける。
「へぇ!美味そうなのが、いっぱい泳いでたでしょ。」
その顔は笑い皺でくしゃくしゃ、涎をたらさんばかりにほころんでいる。
「はい、そりゃもう。だからここにきたんですよ。」
魚なんてろくに見もしなかった、
とは言わず日山はただ笑いかえした。























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