短編小説:愛せないこと
「おぼえてる? ねえ。二人でトイザらスに行ったときのこと」
娘がからかうようにそう言ったのを聞いて、母は皿洗いの手を止めた。「いま、なんて?」
「トイザらスのことよ」
娘はそう言う。ついさっきまで笑っていたのに、いまではもうテレビに見入っていた。母はキッチン越しにその姿を見た。娘はソファに横たわっていた。
「トイザらスのことねえ」
母はまた手を動かしはじめる。流れで切るように皿を回し、ごしごしと力をやる。指のあかぎれのことをおもう。この皿はずっと昔からあったものだわ、ともおもう。でもそのころにはもう彼はいなかったかしら。
いたかもしれない。
どっちにしろ、それくらい古くからある皿なのね、これは。試しに流しの皿を点検してみた。
あとのはどれも彼女が必要に応じて買い足して来たものだった。少なくとも古いとはおもえなかった。
トイザらスのこと。そうやってずっと皿洗いを続けながら――古い皿を洗い直しながら、彼女は考えてみる。トイザらスのこと。
「おもちゃ屋さんよねえ」彼女はそう言う。
娘は笑っていた。テレビではすらっとした男たちがジョークをかわし、めいめいに笑っていた。司会も笑い、テロップがぴかぴかと光り、大きな声でもう一度同じジョークを繰り返す。
娘は笑っている。
おもちゃ屋さんでいったい何があったのかしら? 母親はまるで自分の経験ではないようにそうおもう。トイザらスのことなんて、まったく記憶にないのだ。いったいどこにあるのかも知らない。このあたりにないことはわかる。
ただ、やはり行ったことはあるのだろう。だってわたし、それがおもちゃ屋さんだって知っているもの。でもそれだったら、ほんとういったいどこにあるのかしら?
「おもちゃ屋さんよねえ」彼女はもう一度そう言ってみる。
テレビと娘は笑いながら言う。「だから、そうだって言ったでしょ。トイザらスはおもちゃ屋さんよ」
そしてこごえで言う。「お母さんもずいぶんぼんやりしてきたよね」
無機質に横たわり、テレビを見やっているずんぐりとした未婚の娘を母親はキッチンのところからのぞいている。手には古い皿があり、擦り切れたスポンジがある。しみのある敷物。日に焼けたカーテン。夜に向けて換気扇はぶんぶんと回転していて、母親はトイザらスのことをおもっている。
わたし、おもちゃ屋さんだって知っているのよ。だからきっと行ったことがあるのね。
でも、いったいどこにあるっていうの? すくなくともここにはないわ。
その日の夕食はシチューだった。娘は仕事のことを考えていた。ずっと考えて、テレビのほうを向いて食べていたが、母に目をやってみると、そのえりのところにシチューが飛んでいた。
「ねえ、えりのとこにシチューついてるよ」
「あらまあ」
娘は見ていた。母親が不器用に首をちぢこめて、くるくると両目を動かしているそのさまを。唇は圧したように潰れていて、しわくちゃになったふたつの耳が頭の動きにあわせてひらひらと羽ばたいて見えた。
それからシチューを見た。皿の端に溜まった水っぽい部分を。そこににんじんが浮かんでいるのを。
実際、彼女たちはトイザらスに行ったことがあった。行ったのは事実だった。
それにトイザらスはそれほど遠くないところにあった。最寄りのモールにいまも入っている。
そのころふたりはずいぶん貧乏していた。夫がいなくなり、就職経験のない彼女が必死になって仕事を探しているときだった。娘は育ち盛りで、学校もこれから始まるという時期だった。
小さな部屋でふたりは寝起きしていた。母親のほうは起きるたびに彼が帰ってこないか、そして口座に金が振り込まれていないかと、真剣に期待していた。
娘は退屈だった。どこに出かけるか考えて、なにを食べたいか考えて、昨日や一昨日のことをおもいだして、あとはぼんやりしていた。
母は朝起きるといちばんに窓辺の通帳を手に取り、そこの残高を確認していた。娘が目を覚まさないようにそっと布団を抜け出し、寝間着のままでそろりそろりと歩いていた。ただ、彼女は不器用だったから、娘のほうは何度もその後ろ姿を目にしていた。窓辺にもたれかかり、夢うつつに通帳のページをめくる母親をぼんやり見ていた。
彼女は何度も何度もページをめくった。
トイザらスに行ったのはその時期だった。母親は歩きでそこまで娘と行き、それから耳打ちでそっと言った。
「なんでも好きものを買っていいのよ」
娘は母を見つめた。母は興奮していた。
ちょっと歩き、白い棚に並んだおもちゃたちを眺めた。
おにんぎょう、ラジコン、スケボー、ぬいぐるみ。熊のぬいぐるみ。熊のぬいぐるみは太っていた。ボタンの両目が白く輝いていた。ばってんで鼻もついていた。
娘は母親のところへ戻って、「なにもいらない」と言った。母親は娘を前にしたままで目をむいて硬直し、それからうなだれるように顔をそむけ、しばらくあとに向きなおってぎゅっと、いままでで一番力強く娘のことを抱きしめた。
娘は、母親の皮膚の湿ったにおいをかぎながら、これは滑稽な姿だろうなとおもっていた。わたしは本当になにも必要としていないのだ。
ああ。ああ……わたしはなにもいらないのに。
これからどんなことが起ころうとも、母を心から愛することはできないのだな。その考えが初めて浮かんだのはそのときだった。
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