見出し画像

短編小説:男女の楽しむ明るい砂浜

 籐のベッドに腰掛けたとき、奥のところできゅっと小さな音が鳴った。僕はそれが気に入ってしまって、彼女に音の話をする。一度立ち上がり、籐のフレームが膨らんできたあとになって、今度は一緒に腰掛けた。ベッドの深くから小鳥のさえずりのような響きがあって、おもわず二人で笑ってしまう。
「素敵なベッドね」彼女はにっこりとしてそう言う。今度はその白い太ももに手をかけてみる。彼女は僕にうっとりと笑みを向けて返す。
 そうして昼頃からわれわれはずいぶん楽しんでいた。ドアの向かいはガラス張りになっていた。高い位置からの海がうつり、遠くの砂浜まで続いていた。
 男女の楽しむ明るい砂浜。
 太陽が海面まで落ちると、夕焼けは暗いオレンジとなって部屋のあちこちに陰を作った。砂浜の男女はパラソルを折りたたみ、かれら自身の土地へ帰っていった。

 僕と彼女は腕を組んで、大理石の階段をゆっくり下りていった。ホテルでのディナーには予約が必要だった。が、われわれは予約をしていなかったので、フロントで近くの店について訊ねた。
 フロントの男は比較的こころよく答えてくれた。ここを出て、ブロックを二つ、向こうのほうに行くといいと。かれは微笑んだ。僕らはありがとうと言った。外に出ると、眩しかった。言われたように歩いていった。海は後方に広くひらけていて、振り返ると眩しい光線、そしてかれらの浜があった。
 店に入ると――そこは牡蠣や魚を焼いて出してくれる店だった――入口のところで一人の男がへたりこんでいた。焦げ付いた帽子をかぶり、両脚を投げ出して。二つの腿でブリキの缶を包んでいた。
 それで、われわれは壁に張り付くようにして通らなければならなかった。二つの脚が邪魔だったのだ。

 海兵のコスプレをした店員は訊ねた。
「お二人で?」
 われわれはうなずいた。
 席につくと、彼女は微笑んでみせた。微笑むと、彼女はいっそう美しく見えた――僕はそれを伝えた。彼女は嬉しそうにしてみせた。「ちょっと」と言って立ち上がり、白のガウンを畳んで置いた。
 店の中は少し暑すぎた。それで彼女はガウンを脱いだのだった。ただ、しばらくすると暑さにはなれることができた。彼女は牡蠣の料理を楽しんでいた。また、赤ワインを楽しむこともできていた。それは上等なワインだった。充分に熟成され、しかしカビに冒されていない。伝統のあるワイナリーで職人の注意が深々と注がれていた、じつに徹底的に管理されていたものだった。つまり、第一等級のワインだった。ワインを飲んだわれわれには、そういったことが完全に理解できていたのだ。
 店員は両腕で非力そうにそれを抱えていた。ごとんと、テーブルのうえで音を立て、ボトルの内側で淡い色が回転していた。店灯りの中でそれは輝いて見えた。
「過不足ないね」
「ええ。過不足ないわ」
 彼女はたちまち柔らかい笑みをつくった。美しく、たっぷりとした慈愛に満ちていた。僕はたまらなくなった。誘惑の言葉がそこに浮かんだ。
「ねえ、たまらないよ。きみは」

 帰るときになってコスプレの店員はわれわれに値段を伝えた。それは妥当なものに思えた。しかし僕は少し高すぎるんじゃないか、とかれに告げた。
「僕らが地元の人々ではないからこの値段なんでしょう?」
 しばらくして、太っちょの男が出てきた。彼はひどくかしこまった声で「申し訳ありません。値段は、そちらの半額でかまいません」と言った。ハンカチを出し、額をぬぐった。男は店が暑くて仕方ないようだった。たっぷりと汗をかいていて、もう一度拭った。
 われわれは会計を終えると、安くすんだことで嬉しくなっていた。入口まで行き、彼女はガウンを羽織った。にこやかに手をつないでいた。へたりこんだ男のところで、今度は二つの腿を、間のブリキの缶を、またいで出た。かなり大きくまたがなくてはいけなかった。が、僕は酔っていて、何もかもがすでに嬉しかった。
 夜は更けきっていて、足元から立ち上る冷えた空気があった。霧のような、もやかもしれなかった、そのようなものが道にはかかっていた。電灯の輝きは白んでいた。フロントのところで僕たちはカギを受け取った。かれはにっこりとしていた。
 ホテルの部屋に帰ると、われわれはまた二人して笑った。今度は籐のベッドのためではなく、あまりにも嬉しいその一日のことに祝福をするためだった。あるいは酔っていた。
 そしてベッドに入ると、われわれはすぐことに取り掛かった。彼女のガウンを脱がせ、僕もシャツを放り投げた。それは湿った、それでいて夜風の涼しい夏の夜だった。冷えることはなかった。われわれが充分に愛し合ったためだ。彼女の乳房に手をやりながら、僕は夕食のことについて話をした。彼女は艶っぽく顔を向け、暗闇のなかで二人話しあった。この夏旅行について。素晴らしい赤ワインについて。

***

 フロントマンをしているおれのところへ、おやじがやってきたのは早朝の時間だった。こっちへとこっそり呼んで、おれの足元、カウンターの裏に隠してやり、作り置きの朝食を出してやった。おやじはがつがつとそれを食べて、たいらげた。昨日の収穫についておれは訊く。
「いんや。一文無しだね。今日も」
 おやじはいまやひげについた食べかすを手で拭っていた。そして手を舐め、指を使って皿の食べかすも舐めた。
「昨日、裕福そうな旅行客をそっちにうまく仕向けられたんだが」
 おれはそう言う。たしかに、あのカップルにはそっちを教えた。で、そっちへ向かったはずだ。帰ってきたときひどく酔っぱらっていたから、実際そっちへ出向いていったはずだ。
「いんや」おやじは言う。「一文無しだね。今日も」
「ほらさ」と缶を逆さまにして言う。「すっからからんだね。今日も」
「男と女の、旅行客は?」
「いんや」おやじは股のところを掻いていた。「知らねえなあ」

 おれはいらいらしていた。朝から寒かったのもそうだが、おやじについて、どうして誰も優しくしてやらないのかと。
 ただ旅行客に訊ねるなんてことはやるべきじゃなかったんだ。そんなことしたって何の解決にもならないのだ。事態はそれ以上よくなりゃしない。
 それに、訊いたせいでもっとひどくなるかもしれなかったんだ。危険なことで、どうせ収穫は何もないことだった。だから訊ねるわけはなかったんだ。実際に。
「昨日のレストランはいかがでしたか?」
 背の低い男が答える。「ああ。レストラン? そうだね。素晴らしいワインだったよ」
「レストランの男はどうでしたか?」
 男が答える。「男?」
 隣の美しい女が言う。
「可愛らしいひとだったわ。ワインでいっぱいになっちゃってて」
 男が言う。
「ああ。ふっくら太ってたよね。やっぱりここは食べ物がいいんだろうね。あんなにふっくらと太っているなんて」
 男は鼻を鳴らして笑った。「それに、ものわかりもよかったな」
 それでそいつらはにっこり笑って、浜のほうへ出て行ったのさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?