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日記:「ファインダー」

 レイモンド・カーヴァーの短編、「ファインダー」を読む。
「ファインダー」は短編集『愛について語るときに我々の語ること』に収録されている。『愛について語るときに我々の語ること』という、一見奇妙なタイトルは同名の短編の以下の部分からとられている。

"You see, this happened a few months ago, but it's still going on right now, and it ought to make us feel ashamed when we talk like we know what we're talking about when we talk about love."
「このことは二、三ヵ月前に起こった。でもそれは今でも続いていて、この話を聞いたら僕らはみんな恥じ入ってしかるべきなんだ。こういう風に愛についてしゃべっているときに自分が何をしゃべっているか承知しているというような偉そうな顔をしてしゃべってることについてね」

レイモンド・カーヴァー「愛について語るときに我々のこと」

 すごくいいセリフだと思う。僕も愛について語る行為は、メル(作中の人物)が言ったようなものだと考えている。以前、それほど親しくない人物に「ぜひあなたと愛について語りたい」とせがまれたが、僕は断固拒否した。語るという行為はどうしようもなく部分的なものであるし、部分的であるということは残った「非部分」については相手の憶測に任せるしかないということだからだ。とりわけ、それが声でしての語り合いということになると、語ることができる部分はごくごく限られたものになってしまう。僕としてはとてもじゃないがそのようにして愛を語ることはできないと思った。そもそも、僕は愛についてほとんど何も知らない。

「ファインダー」はとてもいい短編だ。なんというか、書き写したくなる短編だ。
 本当にまれにだが、僕は短編や長編の一部を書き写すことをする。一言一句、そのまま僕の手で再現していくのだ。そう、「写経」だ。
「ファインダー」を読んで、僕も「ファインダー」のように書きたいと思った。だから先に断っておく。僕が十二月やこの冬の間に、「ファインダー」ライクな作品を書いても怒らないでほしい。僕の書く行為は、もちろんそのときどきにもよるが、尊敬を示す手段でもあるのだから。

 そして、やはりゆっくりと『移動祝祭日』を読み続けている。電車の中で読んだ「上限の森林からさらに高い山あいの草原に入っての登山」という一節が、僕はずいぶん好きだった。
『忘れられた巨人』を読んだときからそうだ。限界森林を超えて始まる草原という風景は、人生や未来という捉えるにはあまりに巨大なものへ立ち向かうことへ幾ばくかの勇気を与えてくれる。そして、そうした花の草原を超え、さらにてっぺんに近づけば、そこではきっと軽い雪や、……と、僕は出会うことができるのだ。そう。すごくわくわくする。
 楽観的な展望には間違いないのだろうが、期待しないというのは難しい。きっとそこで僕はまれな景色を拝めるのだ。ある意味で「祝福」を受けることができるのだ。そういった妄想には冒険心を掻き立てられるし、浮かんでくるイメージも素晴らしいものばかりだということもあって、いまのところ僕は熱心にそう信じざるを得ないでいる。事実のことはまた別にして。

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