「再考」中の目標 その5

 前回は現在の興味・関心事である「非対称的(対等ではない)な関係」に至った私の過去の経緯を書いてみました。そこでは私自身の男性性の見直しにも触れました。そういうわけで、今回は私が男性であることとは何か、現在理解できていることを書いてみます。
 Twitterをしていたらピアノ教室で美人先生に習うとモチベーションが上がる男性の話があり、批判を受けていたようです。美人な女性が教えてくれたらそりゃ上手くなりたいと思うよなあと私は感じました。私も高校時代は図書室の司書と昼休みにたわいもない話で盛り上がっていました。30代後半の女性で聡明かつ美人な方でした。今でも相手の女性が美人だと正直にそう言ってしまいます。とは言え、批判した側の背景を考える必要性はあります。多分、ジェンダーやフェミニズム等にある女性も男性も対等だとする発想が根拠でしょう。女性を美人だと言うことは男性が女性を下に見ているからできることであり、その美人先生は男性をチヤホヤして男尊女卑を強化しようとしていると考えたのでしょう。
 以上のことから、美人な女性を通して、私の男性性を見直すと女性を下に捉える側面があることは否定できません。男性優勢(非対称的)構造の中で男性として生きてきたからでしょう。ただ、対等と見てないから批判されていいかというと、そうでもないと考えています。私は美人と言えば女性は必ず喜ぶという発想がいいとは思っていませんし、美人な女性でもそう言われたくない人は一定数いるでしょうから、私はそういう人に言うつもりは毛頭ありません。ただ同時に、ジェンダー対等だけでも男性優勢的な発想だけでも社会や個人は息苦しくなると私は思っています。どちらの発想も程よくバランスを取っていた方が、社会としても個人としても健全であると考えているからです。美人と言われて嬉しいと思う人、そうでないと思う人ーどちらも尊重される必要があります。
 私は女性学(ジェンダーやフェミニズム等)にも関心を持っていることから、現在『あたらしいジェンダースタディーズ』(金剛出版)を読んでいます。そんな人が美人のことを書いたら、それは男性優勢で男尊女卑な人と評価されても仕方ないと思っています。ただ、美人というのも男性から見た評価であり、男性優勢社会という構造により成立した概念(言葉)とも捉えられます。そんな中で、ジェンダー対等が叫ばれているのも事実です。ただどちらにも長短は必ずあるので、男性優勢的構造もジェンダー対等も理解しておく必要性があります。私の今回の考えを批判するのはいいのですが、両方の発想を理解してからそうしていただけると助かります。
 今回は私の男性性について美人という視点から考えてみました。何とも不遜なことを書いたかもしれません。ただ私がジェンダー対等を掘り下げているのは、私の男性性(男性優勢的構造)を深く考察していき、双方をバランスよくすることが必要であると理解しているからだと考えています。
 今回もここまで読んでいただいた方に心から感謝申し上げます。


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