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気働き

家族を持つようになるとその人数分だけ自分の分身が増えたような感覚で、それぞれの幸福や不幸を何時も頭の中で考えるようになる。

親とはそういう生き物だと子供を持って初めて気付いた。

分身と言っても、問題は自分の全てではなく一部であるため、自分とは全く異なった感覚と認識であることに驚く。

それぞれ全く性格が違うし、好みも違うから各々にどんなものを買って来れば喜ぶのかを考えるのもある意味楽しかった。

特に子供はよく病気をするし、危険なことも多く、常に気が抜けない。

同時に急激に衰えて行く親の心配も尽きない。

家族の人数分だけ心配と不安と幸不幸が増幅する人生は頗る大変でもあったが、今になって思い返せば楽しかったことのほうが遥かに多い。

問題はどんどん増えた家族の分のリスク管理であった。

子供たちは成長するに連れ、自分ひとりで大きくなったかのように振る舞い、幼い頃から親身に手を掛けてくれた祖父母などに対する感謝の気持ちを忘れたかのように不遜な物言いをするようになる。

親に対しても心配症だとか、不安症だとか、更には気が小さいんだ、などと蔑むような発言をするようになるが、自分がその立場になってみれば分かるが、そんなに暢気に子育てや介護をしていたら簡単に人は怪我をしたり死んだりするもので、親とは常に先回りして心配して動く生き物であることを子供たちはまだ知らない。

幾らお金を稼ぎ続けても砂漠に水を撒くように家族の生活費に消えて行き、加齢と共にお金の不安も自分の健康の不安も尽きない。

歳を重ねるに連れ、高波のように何度も繰り返し訪れる難題に、徐々に精神を蝕まれて行き、段々と鏡に写る自分の眼が笑えていないことに気付くようになるが、それでも家族の前ではぎこちなく作り笑顔で強い父親を演じていたものである。

父母も亡くなり、子供たちも巣立ち、その分だけ寂しくなり幸福感も少なくなったけれど、その反面、常に心配したり不安だったりすることもなくなったので肩の荷が降りた気分でもある。

自分のことのみの心配と不安と悩みなら、もうほとんどやるべき仕事はやり終えたので問題ではない。

誰でも他人や世間に負けないように懸命に自分自身と戦っているものではあるが、長く家族のために力の限り戦い続けて来たと思われる僕としては精神的には報われなかったと感じている部分もある。

しかし、過去は変えられないのだから楽しかった時間だけを記憶に留め、時折思い出し、これからも前に進み続けよう。

僕もそうだったが、若い頃はみな自分を中心として世の中が回っていると勘違いしている馬鹿であり、狭くて浅い範囲の想像力しかなく、周りの人間の立場や気持ちに対する配慮に欠けているものである。

それでも歳と共に経験が増えて行けば、過去の自分の発言や態度を恥じるようになる。

親の心、子知らずとの意味も現実に子を持ち経験しなければ分からないことであり、誰かを守るということはそんなに簡単なことではないことに遠からず気付くはずである。

自分が恵まれていた、甘やかされて生きて来たと気付く切欠は日本を離れてみて、先進国以外の諸外国を見て周ることがあれば容易に気付くはずである。

守るべき人間の数だけ何時も最悪の状況を想定し、杞憂と取り越し苦労を繰り返しながら、あらゆるリスクを排除しようと努めた気働きの末に何事も悪いことは起こらなかったという当たり前にして最善の結果があったことに、まだ彼女らは幸か不幸か気付いていない。

まぁ、そんなことを言ったとしたら、また恩着せがましいと非難轟々だろうけど。

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