優生思想
個人の尊厳を語り多様性を標榜する時代になっても、この国には優生思想が蔓延している。
テレビや雑誌を見ても美が正義であるとばかりに美男美女が自信満々に商品の説明をしているが、こちらとしては親から貰ったものだけで勝負する浅はかな人間としか映らず、商品の説明より自身の承認欲求のほうが大きいのではないかと訝しく思うことも多い。
昭和の人間としては、親から貰ったものではなく自分の努力と根性で世の中を切り開き、未来は自分で築き上げるのが人生だと昔気質に考えているので、与えられたものだけで勝負する人生に何の意味があるのかとぶつぶつと文句を言っている日々である。
しかしその思想が時代遅れになっていることは当然だが、その制度が廃止されても尚、この国の人々の意識の中にはその価値観が根深く残っている。
マイナンバーを利用してユダヤ人を排除したドイツ帝国だけでなく、欧米ではかつて広くその思想が普及し、その流れがこの国にも波及し、人々を長く苦しめて来た。
国民は国家の構成員として規格され人間としてではなく商品として認識され続けて来た。
だが、宝塚歌劇団でもあるまいし、清く正しく美しく、更に強く優れた人間性を求められても、今どき、そんな人間がいる訳もなく、宝塚歌劇団でさえ時代錯誤を認めざるを得ない時代になっている。
YouTubeのサトマイの動画では、男らしさ女らしさの背景には幼い頃からのアニメや漫画文化の影響があるのではないかという指摘があった。
確かに常識とは無意識の文化の植え付けであり蓄積されるものだ。
幼稚園から小学校に入っても人間として尊重されたり、生きているだけで良いとか、ありのままで良いなどと教育された記憶はなく、ただただカリキュラムに従って知識を吸収し、組織に馴染むための教育を受け続けて来た。
学制とは富国強兵のためであったと言われるのもそのような所以だろう。
中国を始めとして人口の多い国の為政者は個人を大切に考える意識などなく、国策と言っても国家の利益が第一で、個人の幸福などまるで考えていない政策であったことは戦後、原発やオリンピック、万博、リニア新幹線などを見ていても異論の余地がないのではないだろうか。
国民の利益を考えているなら東日本大震災や能登半島の震災の人々をこれほど放置しているはずがない。
形ばかりの国民主権と民主主義であったのだと思う。
テレビで特集されるこの街に住む者たちは弱く狡く汚い人々が多いが、マスコミを始め、この国の社会的地位のある人間、例えば、医師や弁護士、上級公務員などはその多くが豊かな階層の生まれで自分が元々優れた人間であると認識している人々が多いように思う。
つまり、この街に住む人間は下流だと認識していて、その行動や思考回路がほとんど理解できていない人々の集団なのだろう。
勿論、比率の問題でどこにでもそういう人間はいるのだが、イメージとして、そう捉えられている。
微罪にでも手を染めなくては生活できない、または罪の大きさを認識する知識も想像力もない人々もいて、ワイドショーなどで、ひたすら小さな問題や出来事を取り上げて糾弾しているが、結果として、その放送を見ている人々に更なるイメージ付けとレッテル貼り、また同調圧力の種子を植え付ける結果になっているように見える。
確かに正義とは人間の数だけ各々に存在するのかも知れないが、最近の世界や特に日本において、強い者が弱い者を容赦なく叩く傾向が見られる。
個人的には弱い者が強い者に立ち向かう正義の方がまだましな社会であると思っているし、民主主義がまだましなシステムであるなら、尚更そうであると思っている。
強い者が弱い者を虐げる社会とは、弱肉強食の野生動物の世界と変わらず、原理原則として、共に協力して生活するシステムである社会という意味において根本から破綻しているのではと日々嘆いている。
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